マリリン・モンローが現れて野球指導が「中止」になることも 親日家で何度も日本を訪れたヤンキースの至宝ジョー・ディマジオ
あなたの知らない野球の歴史【第4回】
■ディマジオが背負った「5」はヤンキースの永久欠番
ジョー・ディマジオ、彼はニューヨーク・ヤンキースのレジェンドであるが、意外に日本と縁があることを知る人は少ないかもしれない。我々の記憶にあるのはマリリン・モンローとの結婚、新婚旅行で訪日、だが帰国後に離婚したことだろう。
ディマジオは、1932年に3Aのサンフランシスコ・シールズとマイナー契約した。シールズ監督のレフテイー・オドール(元ジャイアンツの選手、日米野球の功労者、日本の野球殿堂入り)のもとで活躍、オドールの弟子ということでも知られている。大日本東京野球倶楽部(巨人)が1935年に渡米遠征した時、シールズとの交流試合で沢村栄治からホームランを打っている。これは記憶にとどめたい。彼は1936年にメジャー昇格。、1937年には46本のホームランを放ちデビュー2年目でホームラン王となった。ベーブ・ルースの後継者とも呼ばれヤンキースの4連覇に貢献した。1941年には56試合連続安打という現在でも破られていないとてつもない大記録を樹立した。「彼の背番号『5』はヤンキースの永久欠番の一つである。
1949年占領中の日本に、そのシールズが来日した。オドールは15年ぶりの凱旋でもあった。本来は読売が招聘する日米野球だったが、占領中だけにGHQ側の要求は注文がついた。そこにディマジオが弟と共に参加していた。翌年には再びオドールとディマジオが野球教室で来日している。
1951年ディマジオは引退した。13シーズンで通算打率は3割2分5厘、2214安打、361本塁打と、記録を見れば普通のスター選手というべき成績だが、19回のリーグ優勝、9回のワールドシリーズ制覇とヤンキース時代は並外れたチームへの貢献で米国民の記憶に残る選手となった。
■臨時コーチや野球指導で何度も訪日する
ディマジオが引退後に有名になったのは、1954年女優のマリリン・モンローとの新婚旅行で来日したことだ。このプランに関与したのは読売新聞、オドールと親交のあったキャピー原田(原田恒男)だった。原田の読売の資金を流用するようなやり方にかなり憤慨していた鈴木惣太郎などは彼らのツアーに「厄介で困ったこと」と批判している。
ディマジオはオドールと共に各地で野球教室を開いている。ある日のこと、グランドで野球指導をしているところにモンローが突然現れ、現場は大騒ぎになり野球指導が中止になることがあった。またホテルの記者会見でも引退したディマジオより銀幕のヒロイン、モンローへの質問が殺到して、ディマジオも身の置き場のない経験を何度もして夫婦仲は険悪になっていく。
モンローは朝鮮戦争休戦後、韓国に駐留する米軍人を慰問するための来日でもあった。滞在中、帝国ホテルで何度も施術マッサージの役割を担った浪越徳次郎(なみこしとくじろう)はこの施術でマスコミ紙上でも有名になった。後年、モンローが亡くなったときディマジオは葬儀一切を取り仕切り、20年間、週に3回、モンローの墓に薔薇の花を供えていたことはあまりに有名だ。再婚の予定だったようだ。
さて、ディマジオはこのように何度も訪日しており、その後1968年に大洋ホエールズ、1975年にはロッテ・オリオンズの春季キャンプで臨時コーチを務めたことがある。わずかな時間で打者の欠点を見つけ出し監督らを驚かしている。
1999年3月、ディマジオは肺がんのため84歳で亡くなった。無くなる前年まで、ヤンキースの開幕戦の始球式はディマジオが務めた。最後までヤンキースの生きるレジェンドだった。
国民的ヒーローはヘミングウェイの『老人と海』にも登場する。彼の死後、4月25日、ヤンキー・スタジアムでディマジオ追悼試合が開催された。この時ゲストのポール・サイモンが「ミセス・ロビンソン」を献曲として大観衆を前にギター1本で歌っている。あの英雄はどこへ行ったしまったのか、国中が惜しんでいるという懐旧の念を込めての熱唱だった。旧球場には彼の記念碑が残っている。

マリリン・モンロー イラスト/AC