幕末に「国産」の蒸気軍艦を建造 日本海軍を語る上で欠かせない超重要人物・小野友五郎
日本海軍誕生の軌跡【第2回】
常陸笠間藩士でありながら、その類稀な算術の才を買われ、咸臨丸の測量係として渡米。さらに国産蒸気軍艦建造をはじめ、数多くの功績を残した小野友五郎。その人生を知れば、日本海軍の誕生、さらには近代産業発展に欠かせない人物であることを痛感するはずだ。

小野友五郎が発案した小型砲艦による江戸湾防備計画から、初の国産蒸気砲艦として建造された「千代田形」。戊辰戦争では榎本武揚率いる旧幕府艦隊として、最終的に箱館戦争にも参加。明治2年(1869)5月に艦籍が明治新政府に移された。
咸臨丸に与えられた任務、「日米修好通商条約の批准書交換のための使節団護衛」は、サンフランシスコでお役御免となる。激しい嵐の連続だった往路で、咸臨丸が予想以上のダメージを受けてしまい、修理に時間がかかってしまったのだ。そのため使節団を乗せたポーハタン号が、万延元年3月17日(1860年4月7日)にパナマに向け出港する際、咸臨丸は間に合わなかったのである。
「お二人に忌憚のない意見を伺いたい」
咸臨丸の司令官で軍艦奉行の木村摂津守喜毅(せっつのかみよしたけ)は、サンフランシスコ滞在中に用意された上級士官用の部屋に小野友五郎と中浜(ジョン)万次郎を招き入れると、こう切り出した。「咸臨丸は往路同様、太平洋を横断して日本に帰ることになりますが、行きと違いアメリカ人乗組員は同乗しません。日本人だけで無事太平洋を横断できるか懸念しているのです」

幕府海軍軍制取締、長崎海軍伝習所取締、軍艦奉行、勘定奉行などの要職を歴任した木村摂津守喜毅。咸臨丸で渡米した際の司令官。帰国後は軍艦奉行に復帰し、幕府海軍創設に尽力。維新後は完全に隠居している。
「測量方に関しては問題ありません」
友五郎が即座に応えた。続いて万次郎も
「大変な航海になると思いますが、まず大丈夫でしょう」
と応じている。二人の答えを聞いて、木村摂津守は安堵の表情を浮かべ、
「どうかお二人の力で咸臨丸を無事日本に帰してください」
と頷いた。
そんな木村摂津守に、従者という名目で付き従っていた人物がいた。とてもお調子者に見えたその男こそ、後に慶應義塾大学を創設した福澤諭吉その人だった。オランダ語をはじめ西洋事情に通じていたことで、木村摂津守の供に選ばれたということだ。
サンフランシスコ滞在中、友五郎は福澤によく声をかけられた。ある時は友五郎が毎日メーア島の海軍造船所に足を運ぶのを見て、
「小野さん、せっかくアメリカに来たのだから、街に出て楽しんだらどうです」
それに対して友五郎は
「はて、造船所をつぶさに調べて回ること以上に、楽しいことはないと思うのですが……」
と、応えている。技術者でもある友五郎は、アメリカの造船技術を、しっかり頭に焼き付けて帰国することを第一に考えていた。西洋のあらゆる文物を見聞するのが目的の福澤とは、おのずと見ている風景が違ったのである。

咸臨丸が渡米した際、木村司令官の従者扱いで参加した福澤諭吉。日本の近代化に役立てるという名目で、アメリカでは多くの書物を公金で入手。これは他の乗組員に内緒で写真館の娘と記念写真を撮り、自慢した際の写真。
万延元年閏3月19日(1860年5月9日)、咸臨丸は単独で帰国の途についた。往路と違い復路はおおむね好天に恵まれた。途中でハワイに寄港し、万延元年5月5日(1860年6月23日)に浦賀港、翌日に品川港に到着。往復83日間、10,775浬(19,955km)という大航海は、誕生したての幕府海軍に自信を与えた。
帰国後、友五郎の人生は激変する。軍艦奉行の木村摂津守により、アメリカへの航海における友五郎の功績が報告され、それを聞いた十四代将軍徳川家茂に拝謁、褒美を賜ることとなった。その際、木村摂津守に国産蒸気船の建造を具申、20分の1の正確無比な雛形(模型)を製作して説得に努めた。
そんな努力に加え、ロシア軍艦ポサドニック号が対馬に来航し、島の一部を占拠したうえで租借権を要求する、という事件が起きたことが後押しになり、万延2年1月(2月に文久に改元・1861)蒸気軍艦建造の許可が与えられ主任に任命される。同年7月には笠間藩士から正式に幕臣に取り立てられ旗本となり、外国の軍艦から江戸を守るための防衛施設建設のため、江戸湾の測量を行った。
さらに10月になると小笠原諸島の調査と領有権を確定させることを命じられ、咸臨丸の艦長となって現地の測量に赴いた。そこには頼りになる懐かしい人、ジョン万次郎も乗り組んでいた。彼は小笠原に移住していたアメリカ人やイギリス人との交渉役も努めた。この事が、後に日本が小笠原諸島の領有権を主張する根拠となったのだ。

土佐国(高知県)の漁師の子であった万次郎は、14歳のときに乗り込んだ船が漂流し、アメリカの捕鯨船に救助された。そのままアメリカに渡り、捕鯨船員となりアメリカ人からジョン・マンと呼ばれた。帰国後は旗本に取り立てられ、中浜という名字が与えられた。咸臨丸には通訳として乗船。
そして文久2年(1862)5月には、幕府初の国産蒸気軍艦「千代田形(ちよだがた)」が小野友五郎と、長崎海軍伝習所で小野と同期だった春山弁蔵の設計で起工する。蒸気機関の設計は、長崎海軍伝習所2期生で咸臨丸蒸気方(機関長)として友五郎とともにアメリカに渡った肥田浜五郎が担当。同型艦を20隻建造する計画であったことから、名前に艦型もしくは級を意味する「形」が付けられた。
千代田形は文久3年(1863)7月に進水、慶応2年(1866)5月に竣工し、江戸末期の幕府海軍の一翼を担うこととなる。だが計画通りの量産には至らず、完成は1隻のみだった。
友五郎は元治元年(1864)6月に勘定吟味役に昇進。「金銀吹替并吹立御用(きんぎんふきかえならびふきたつごよう)」を兼務し、外国の貨幣と日本の貨幣の内外価格差による金や銀の流出防止に努めた。同年、第1次長州征討のための陸軍部隊の動員・兵站計画を担う。2年後の第2次長州征討の際も動員されるが、急遽アメリカ行きを命ぜられる。
幕府は長州藩との戦いで、海軍力をより高める必要性を痛感。軍艦調達のための遣米使節団の正使に、軍艦に精通しているうえ為替にも明るく、渡米経験もある小野友五郎を選んだのである。
友五郎はアメリカ海軍省との交渉の結果、ストーンウォール号の購入をまとめる。この艦はのちに「甲鉄」と呼ばれ、明治新政府の手に渡り、明治4年12月7日(1872年1月16日)に東艦(あずまかん)に改名された。

小野友五郎が正使となり、軍艦や武器を調達するため再度渡米した際、購入した装甲艦のストーンウォール号。日本到着時には戊辰戦争が起こり、新政府側もこの船を求めたため、アメリカは局外中立を宣言し、引き渡しを保留。榎本武揚の旧幕府海軍が蝦夷地(北海道)に渡った後、明治政府に引き渡された。
本人はただ与えられた仕事を黙々とこなしていただけなのに、鳥羽・伏見の戦い以降、小野友五郎は幕府内の主戦派と見なされ、維新後は禁固・自宅謹慎となる。明治3年(1870)に海軍省への出仕依頼を断り、民部省に出仕。同省が手がけていた新橋〜横浜間の鉄道建設の測量技師長となる。以後、東海道本線、東北本線、中央線の路線踏査測量を実施し、国内の鉄道発展に寄与している。

開通直後の汐留(当時の東京)駅。維新後、その豊富な経験を買われ、小野は海軍から再三出仕を求められた。だがかたくなに固辞し、代わりに鉄道敷設のための測量に従事。イギリス人技師から一目置かれる存在であった。