終戦間近のビルマ戦線を舞台に軍人の悲哀と音楽を描く 『ビルマの竪琴』はミャンマー情勢が不穏な現代にこそ響く【昭和の映画史】
■近代日本の闇を背負った「からゆきさん」とは?
ミャンマー国境付近が騒がしい。一部武装勢力が中国の詐欺組織拠点を守り、利益を分け合っているのである。
ミャンマーは平成元年(1989年)までビルマだった。ある世代以上の日本人にとってビルマは、泰緬鉄道の建設とインパール作戦の悲惨さによって記憶されている。
泰緬鉄道は戦況の悪化による海上輸送の不安定さから、陸上輸送路として計画したものである。バンコクを起点としてビルマを通り、ラオスを目指した。
1942年(昭和17年)6月から、連合国軍捕虜6万2000人のほか、労務者としてビルマ人18万人、マレーシア人8万人、インドネシア人4万5000人など多くの人々を酷使し、突貫工事で敷設した。
この工事を題材にして、映画『戦場にかける橋』が製作されている。世界的な大ヒットとなり、昭和32年(1957年)のアカデミー賞7冠を得た。史実を元にしたフィクションである。
建設作業は、夏は暑く雨季にはスコールが襲う過酷な環境下で、充分な食料も休息も与えられないタコ部屋労働だった。「枕木一本、死者一人」と言われほど多くの犠牲者を出し、日本の敗戦後に戦争犯罪として裁かれた。
原作は、東大教授も務めたドイツ研究者の竹山道雄による児童小説である。戦争中、多くの学生を戦場に送り出した痛恨の思いから、この小説を書いたという。かつては、中高校生が読むべき本のリストに必ず入っていた。
説明するまでもないが、インパール作戦は昭和19年(1944年)3月からほぼ4ヶ月間、当時のイギリス領インド東北部の都市、インパールの攻略を目指した作戦である。太平洋戦争史上最悪の消耗戦だ。
連合軍が中華民国政府を支援するための物資を運ぶ援蒋ルートの遮断と、インドの植民地運動を刺激する意図も持っていた。実際、日本に独立の夢をかけたチャンドラ・ボース率いるインド国民軍4万も参加していた。しかし敗北。敗戦の7ヶ月前に日本で客死したボースの人生もまた、悲劇だった。
アウンサン・スーチーの父親であるアウンサン将軍も、一時は日本に望みを託してビルマ国民軍を率いていた。しかし、ビルマ人に対する日本軍の態度に疑念を抱き、インパール作戦の失敗を機に離反した。
映画『ビルマの竪琴』は、音楽に彩られた鎮魂の物語である。敗戦直前のビルマ戦線で音楽学校出身の隊長のもと、合唱で規律を維持し、辛い日々を乗り越えている小隊に起きた話だ。
小隊の中で、特に才能を開花させていた水島上等兵は、ビルマ伝統の竪琴を弾きこなしていた。ビルマ人の伝統衣装を着て斥候に出て、演奏で状況を知らせることもあった。
ある日、イギリス軍に包囲された小隊は『埴生の宿』を歌って敵を油断させようとする。しかし、イギリス軍もまた英語で『埴生の宿』を歌ったのである。この歌はもともとイングランド民謡の『ホーム・スイート・ホーム』(楽しき我が家)である。結局、両軍は戦わずして向き合い、小隊は日本の敗戦を知った。
彼らは収容所に送られる。しかし、まだ敗戦を受け入れずに戦闘行為を続けている小隊があった。このままでは全滅だ。そこで小隊長は降伏を勧めるため、イギリス軍の許可を得て水島を説得のために送る。しかし、水島はそのまま帰ってこなかったのだ。
水島の行方を心配する小隊の前に、ある日、水島によく似たビルマの僧が現れた。肩に青いインコを乗せて、鉄条網の向こうから小隊を見ていている。しかし、声をかけると何も言わずに消えてしまう。
事情を推察した隊長は、物売りに来るビルマン人から別のインコを譲ってもらい、「オーイ、ミズシマ、イッショニ、ニッポンニ、カエロウ」という言葉を教え込む。
やがて小隊の帰国が決まると、水島と思われる僧のことが気になる隊員たちは、毎日、渾身の合唱をする。現地のビルマ人も、鉄条網の外から聞き惚れるほどの歌声だった。
そして帰国の前日、ついに例の僧が現れる。小隊が『埴生の宿』を合唱すると、僧はそれに合わせて竪琴をかき鳴らす。水島だと確信した隊員たちは、「一緒に日本に帰ろう」と必死で呼びかけた。しかし、僧は『仰げば尊し』をかき鳴らして去っていくのだった。
水島はどうして、僧となってビルマに留まる決意をしたのだろうか。監督は市川崑で、隊長を三國連太郎が、水島役を新派の人気者だった安井昌二が演じている。
この映画は国内でヒットしただけでなく、海外でも高く評価され、ベネチア国際映画祭サンジョルジョ賞を受賞し、アカデミー外国語映画賞の候補作にもなった。しかし市川は、撮影や編集をめぐって日活と揉めた上、モノクロ作品にせざるを得なかった。
そのため、もう一度作り直したいという強い思いを持っており、後にそれが実現する。その昭和60年版(1985年)では隊長役が石坂浩二、水島役は中井貴一で、念願の海外ロケも実現し、この年の邦画最高のヒットとなったのである。
ただ『ビルマの竪琴』には原作段階から批判があった。主に、国家の責任を個人に負わせているというものである。その批判は外れていないと思うが、一方で個人の良心という難問を問いかけている。
ゲシュタポのユダヤ人移送長官で、逃亡先のアルゼンチンで拘束されたアイヒマンは、裁判で「私は命令を忠実に実行しただけ」と答えた。そこに個人の良心はない。水島の決断は、無力な個人が担い得る精一杯の贖罪だとも言えるし、鎮魂という日本の伝統的な文化に則ったものとも言える。
ところで、日本にミャンマー人が渡ってくるようになったのは、アウンサン・スーチー率いる民主化運動が弾圧された時からだ。最初に彼らが集まったのは新宿区の中井である。その理由について、中井に住んでいた筆者には心当たりがある。
西武新宿線中井駅の近くには町会長が経営する写真館があって、私は現像のためよく利用していた。狭い店内には数枚のビルマの写真が掲示されていた。常々それを不思議に思っていた筆者は、ある日、理由を聞いてみたのである。
小太りで温厚な町会長は「ちょっと因縁がありまして、時々行くんですよ」と言葉少なに答え、筆者もそれ以上は聞かなかった。だがその後、テレビで泰緬鉄道についてのドキュメンタリーが放送され、それを観た私は驚愕した。テレビ画面に映っている元連隊長は、町会長だったのである!
捕虜虐待で戦争裁判になり、労務者の多くが犠牲になった泰緬鉄道の関係者だという事実と、いつもにこやかな町会長の姿とが結びつかなかったのだ。
ミャンマーは今、軍政下の内戦状態だが、日本とは浅からぬ関係にある。アベノマスクも、一部はミャンマーで作られていた。Jリーグもミャンマーのサッカー協会と提携しているし、特殊詐欺という接点までできた。
そういう現在地から過去も振り返りつつ、これからミャンマーとどう付き合ったらいいか、日本人全体で考えたいものだ。
監督の熊井啓は、日本を代表する社会派監督の一人で、敗戦後の怪事件を扱った『帝銀事件 死刑囚』や『謀殺 下山事件』、松本サリン事件をテーマにした『日本の黒い夏 冤罪』などを制作している。

イメージ/イラストAC