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太平洋戦争で日本本土への初めての空襲が実施された「ドゥーリットル空襲」とはいかなるものだったのか⁉─われわれは日本本土を爆撃するのだ─

東京大空襲と本土防空戦の真実#04

 

■アメリカが決行した日本初空襲 本土空襲がここから始まる

 

館山にある赤山地下壕跡

 

 昭和17年(1942)3月初め、アメリカ南部フロリダ州のエグリン飛行場に24名の操縦士が集められ、空母の飛行甲板に見立てた150メートルの滑走路から双発爆撃機B25の〝発艦訓練〟が開始された。そして1カ月後の4月1日にこのなかから16名が選ばれ、カリフォルニア州アラメダ海軍基地に入港した空母「ホーネット」に乗艦するよう命令された。すでにこのとき「ホーネット」の飛行甲板には、16機のB25がクレーンで積み込まれていた。

 

 翌4月2日の朝食後、優秀な航空機関士で、操縦士でもある隊長のジェームズ・ドゥーリットル中佐は隊員を空母「ホーネット」の食堂に集めて「われわれは日本本土を爆撃するのだ」と、その任務を伝え、爆撃後はそのまま日本列島を飛び越えて中国の小さな飛行場に着陸することなど、作戦の概要を説明している。

 

 この日の正午少し前、空母「ホーネット」はサンフランシスコの金門橋(きんもんきょう)をくぐり抜け、太平洋に舳先(へさき)を向けた。重巡と軽巡各1隻と駆逐艦4隻、油槽船1隻が従った。そして4月8日にウィリアム・ハルゼー中将(のち大将)率いる空母「エンタープライズ」の第16機動部隊とミッドウェー沖で合流、日本を目指した。

 

 4月18日午前7時20分、日本本土から1317キロ離れた太平洋上の「ホーネット」艦上からドゥーリットル機を先頭に16機のB25は次々と発艦を開始した。

 

 昼過ぎ、B25が1機茨城県の鹿島灘から水戸の方向に向かって侵入してきた。その侵入路をさえぎるように小さなアメリカ製の旅客機が着陸態勢を取っていた。飛行機には水戸の飛行学校を視察する、首相兼陸相の東条英機(とうじょうひでき)大将が乗っていた。隣席で陸相秘書官の西浦進(にしうらすすむ)大佐が〈妙な飛行機だな?〉と思いながら見つめていると、双発機はぐんぐん接近してきた。

 

「あっ、米軍機だ!」

 

 西浦大佐は息をのんだ。しかし、米軍機はそのままかすめ去っていった。そして首都・東京が最初の爆撃を受けたのはそれから間もない午後12時15分ごろだった。防衛庁編纂の戦史叢書は「帝都は完全に奇襲された」と記し、こう続けている。

 

「米軍機は房総方面を経て飛来し、東京、横浜、川崎、横須賀、名古屋、四日市、和歌山、神戸、別に新潟を次々に攻撃して、午後3時半ころまでに通り魔のように立ち去った」(『大本営陸軍部』〈4〉)と。

 

 ドゥーリットル隊は、日本軍の迎撃や対空砲火をかわして中国に向かったが、ほとんどが山野に不時着し、なかには海上や山中に激突する機もあった。2名がパラシュートで脱出したが、3名が即死、8名が日本軍の捕虜になり、3名が機銃掃射で日本の民間人を殺害したとして処刑された。エドワード・ヨーク大尉率いる8番機だけはウラジオストク郊外のソ連空軍基地に着陸したが、搭乗員5名はソ連当局に軟禁されたあとイランに逃れ、故郷に戻れたのは2年後だった。

 

監修・文/平塚柾緒

『歴史人』2025年4月号『東京大空襲と本土防空戦の真実』より

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