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登場が一歩遅かった救国の「国民戦闘機」【ハインケルHe162フォルクスイェーガー】

ジェットの魁~第1世代ジェット戦闘機の足跡~ 【第3回】


ジェット・エンジンの研究と開発は1930年代初頭から本格化し、1940年代半ばの第二次世界大戦末期には、「第1世代」と称されるジェット戦闘機が実戦に参加していた。この世代のジェット戦闘機の簡単な定義は「1950年代までに開発された亜音速の機体」。本シリーズでは、ジェット戦闘機の魁となったこれらの機体を俯瞰(ふかん)してゆく。


        敗戦によって鹵獲(ろかく)されアメリカでテストされているHe162。本機はザラマンダー(ドイツ語で伝説上の生物「火炎トカゲ」の意)またはシュパッツ(ドイツ語で「スズメ」の意)とも呼ばれた。もし十分な慣熟期間が得られれば、本機は優れたジェット戦闘機へと成長した可能性がある。

         航空工学技術者エルンスト・ハインケル博士によって創設されたドイツのハインケル社は、早い時期からジェット機の研究に着手しており、同社が開発したHe178は1939年8月、世界初のジェット・エンジンだけでの飛行を成し遂げた。さらに双発のHe280は、メッサーシュミット社のMe262よりもかなり早く初飛行に成功し、ドイツ空軍も一時は量産を考えたが、性能が後者に劣るとの理由で先行生産の域を出なかった。

         

         このようにもっともらしい理由をつけられ、一面では確かにその通りながら、実はヴィルヘルム・メッサーシュミットはナチス党に近く、自社の宣伝活動も巧みだった。一方、ハインケルはナチス党を嫌っており、優秀な技術者ではあったが宣伝活動も苦手だったことから、ドイツ空軍から冷遇されたという風聞もあるようだ。

         

         しかしハインケル社は、ドイツ空軍の強いバックアップも受けられないにもかかわらず、独自にジェット機の研究を続けた。そのような状況下の1944年前半、ドイツ本土は連合軍の戦略爆撃にさらされ、従来の戦闘機では、もう戦局の挽回が困難な事態となっていたが、Me262の生産開始に加えて、空軍省はフォルクスイェーガー(「国民戦闘機」の意)の開発と生産を各航空機メーカーに打診した。

         

         本機はMe262とは違ってジェット・エンジンの単発で、合板などの木製素材を接着剤で張り合わせるなど廉価で簡易な方法で生産可能であり、グライダー操縦訓練を終えた程度の操縦初心者でも容易に操縦可能なうえ、最大速度750km/h以上、20mmまたは30mmの機関砲を搭載するという、厳しい性能要求が課せられていた。しかも量産・戦力化までの時間はきわめて短かった。

         

         ところがこの時、ハインケル社は類似の性能の機体の開発を独自に進めており、ドイツ航空省はこれをHe162として制式化。1945年1月末から実戦部隊への配備が開始された。本機は試作の時点でピッチングの傾向が強く出て、操縦も決して容易ではなかったが、最大速度は実に905km/hもの高速を発揮した。

         

         He162はドイツの終戦間際にわずかな機数が実戦に参加。連合軍機の撃墜も記録しているが、自らも空戦と事故で20機以上を失っている(異説あり)。同国の敗戦までに120機ほどが配備され、完成機が200機ほどと生産中のものが500~700機ほどあったと伝えられるが、これらの機数には諸説があるようだ。

         

         ドイツのジェット機に関しては常々語られることだが、すべてがもし1年早かったら、結局は敗北するにしても、やや違った形にするだけの力を発揮したのではないだろうか。

         

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        白石 光しらいし ひかる

        1969年、東京都生まれ。戦車、航空機、艦船などの兵器をはじめ、戦術、作戦に関する造詣も深い。主な著書に『図解マスター・戦車』(学研パブリック)、『真珠湾奇襲1941.12.8』(大日本絵画)など。

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