『日本書紀』に記されたモンスター「土蜘蛛」の正体 ヤマト王権が“惨殺”した「まつろわぬ民」の悲劇とは【古代史ミステリー】
日本史あやしい話
『日本書紀』には「土蜘蛛」というおぞましい名の者たちが登場するが、彼らは妖怪などではない。新たな侵略者たちがやってくるまで、日本各地で平和に暮らしていた先住の民であった。ヤマト王権によって虐げられた彼らの悲運に、今一度目を向けて欲しいと願うのだ。
■『日本書紀』に記された妖怪「土蜘蛛」の正体
土蜘蛛といえば、見上げるばかりの巨大な蜘蛛として語られる恐ろしい妖怪のことである。その首を刎ねたところ、腹から1990個もの死者の首が飛び出てきたというから、なんともおぞましい。
その同じ名前が、『日本書紀』に記されていることに、改めて思いを寄せていただきたいのだ。そこに記された土蜘蛛とは、もちろん妖怪などではない。
日本各地に安住していた先住民のことで、そのうちの王権に「まつろわぬ」として蔑視された人々がこう呼ばれたのだ。洞窟に住んでいたという生活環境はもとより、「身短くして足長し」というような縄文人の特質をよく表しているところからすれば、おそらくは縄文系の人々であったのだろう。
■虫けらのように網で捕まえ、殺害
ともあれ、まずは『日本書紀』に記された土蜘蛛について振り返って見ることにしたい。最初にその名が記されたのは、神武天皇の即位直前のことである。
このときは葛(くず)で網を作って、これで彼らを捕えて殺したというから、まるで虫けら同然の扱いだ。しかも、奪った土地に、わざわざ「葛城(かつらぎ)」と捕らえたときの様相を名にして付けたというから、何をか言わんやである。
もちろん、それ以前にも、皇軍が討伐した土族の長・長髄彦(ながすねひこ)はもとより、名草戸畔(なぐさとべ)という名の女賊や、八十梟帥(やそたける)、兄磯城(えしき)なども次々と殺戮しているが、彼らもまた、土蜘蛛の類と考えてもいいだろう。
その殺害方法は何とも残虐で、だまし討ちというケースも少なからず見られた。『日本書紀』の記述では、彼らが野蛮で凶暴だったから誅されて当然……というような書き方をしているが、それはどうか。討伐された当人達から見れば、たまったものではなかった。
平和に暮らしていたところを、突如侵入してきて、有無を言わさず殺されてしまったわけだから、恨んでも恨みきれなかったに違いない。東征とは名ばかりで、その実、単なる侵略であったことは間違いない。この点に関しては、改めて見つめ直していただきたいと願うばかりである。
■良い関係を築いたケースもあったものの…
ただし、弥生時代中〜後期に渡来してきた北方系民族が、おしなべて同様の様相を見せていたとは思いづらい。歴史を遡ることさらに数百年前の縄文晩期、中国南部から渡来してきた海人族(後の弥生人で、邪馬台国の中核を成す民族か)の場合もどうだったのか知りたいところである。
推測するに、渡来してきた人々の多くは男たちで、多くは先住の縄文人や海人族の娘たちと結ばれたはず。稲作という新たな生活の糧やその最新技術を手にした娘婿に対し、親たちは、むしろ好意的に彼らを迎え入れたのではないだろうか。
しかし、日向四代にわたって、九州南部において縄文人とも海人族たちともうまく付き合ってきたはずの天孫族(=天皇の祖先)たちは違った。新天地を目指すに当たっては、先住の民との協調路線を捨て、手っ取り早い侵略という手を使ったのだ。
通りすがりに出会った土族たちをことごとく降してヤマト入りを果たしたのがその表れである。当面は葛城の地を拠点としながらも勢力を拡大。4世紀後半〜5世紀初頭に活躍したとみられる応神天皇の御代には全国制覇を成し遂げるなど、拡張路線を推し進めて強大なヤマト王権を築きあげることに成功したのだ。
こうした記録は、ヤマト王権の中核となる施政者たちにとっては華々しいものだったかもしれないが、「まつろわなかった」という理由だけで殺戮されてしまった先住の民にとっては、無残な歴史だったとしか言いようがない。
歴史は勝者の手によって作られるとよく言われるが、殺され忘れ去られてしまった彼らこそ悲運。今一度、虐げられ続けてきた人々にも目を向けて欲しいと、つくづく思うのだ。

一言主神社境内にある土蜘蛛塚。謡曲「土蜘蛛」にもその名が登場する/撮影・藤井勝彦