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花山院の愛人から藤原道長の妾になった“四の君” 権力者たちに翻弄された人生の最後に待っていた悲劇

■亡き姉の代わりに愛された妹

 

 NHK大河ドラマ『光る君へ』では、正室・源倫子と妻妾・源明子はともかくとして、“初恋の人”であるまひろ(藤式部)への変わらぬ想いが眩しいほどに描かれている道長。しかし、史料から読み取る限り、実際の道長はそれなりに他の女性へも心惹かれていたようである。

 

 道長の娘で一条天皇の后だった彰子のもとに出仕していた女房・大納言の君(しかも彼女は倫子の姪)は道長の召人(結婚を前提としない、妾以下の愛人関係)だったとされているが、今回ご紹介するお相手は妾の1人であった藤原儼子(げんし/たけこ)である。

 

 儼子は藤原為光の四女で、「四の君」ともいわれる人物だ。兄・斉信は一条朝の四納言の1人で道長が長年頼りにした腹心の部下、そして姉・忯子(しし/よしこ)は花山天皇の女御だった。

 

 花山天皇は忯子を溺愛し、忯子は花山天皇の子を身ごもるが、やがて病に伏す。そして寛和元年(985)7月にお腹の子とともにこの世を去ってしまった。その後、最愛の女御を亡くした花山天皇は失意のなか出家してしまう。そして、いつの頃からか、かつて愛した忯子の妹である儼子のもとに通うようになったのである。

 

 大河ドラマでも劇的に描かれた「長徳の変」は、まさに花山院がこの儼子のもとに通っていたところを、同じ屋敷に住まう三の君を恋人としていた伊周が「花山院は三の君のもとに通っている」と勘違いするところに端を発する。

 

 花山院は寛弘5年(1008)に崩御。その後どのような経緯があったかは不明だが、儼子は道長の次女で居貞親王(三条天皇)の妻・妍子の女房として出仕するようになったらしい。ちなみに三条天皇は花山院の異母弟にあたる人物だった。

 

 そして道長は、妹の女房となった儼子を自身の妾にしてしまうのである。兄・斉信にしてみても、既に父親である為光が亡くなっているという事情もあって、妹が権勢を誇る道長の妾になるというのは悪くないことだったのかもしれない。彼女が道長の妾だったということは、『尊卑分脈』に書かれている。

 

 やがて儼子は道長の子を妊娠。長和5年(1016121日に出産するが、残念ながら死産であり、儼子自身もこの出産によって命を落とした。この出来事は藤原実資の『小右記』長和5年正月21日条に記載されている。

 

 ちょうどこの頃、道長は三条天皇に譲位を迫っており、いよいよ孫の敦成親王の即位が近いとあって日々忙殺されていたと考えられる。そして、三条天皇は最終的に道長の圧力に屈する形で、同年129日に退位。儼子の死のわずか8日後のことだった。

 

 花山院の愛人から道長の妾へ、権力者たちの愛を受け入れながら儼子は何を望み、何を感じていたのだろうか。

イメージ/イラストAC

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歴史人編集部れきしじんへんしゅうぶ

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