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日本陸軍の未来想定能力不足が生んだ火砲?【95式野砲】

日本陸軍の火砲~太平洋戦争を戦った「戦場の神」たち~【第24回】


かつてソ連のスターリンは、軍司令官たちを前にして「現代戦における大砲の威力は神にも等しい」と語ったと伝えられる。この言葉はソ連軍のみならず、世界の軍隊にも通用する「たとえ」といえよう。そこで、南方の島々やビルマの密林、中国の平原などでその「威光」を発揮して将兵に頼られた、日本陸軍の火砲に目を向けてみたい。


        95式野砲。いわゆる「新しい75mm砲」ながら、車輪は車両牽引向けのゴムタイヤではなく、馬による牽引向けの木製スポーク車輪である。

         日本陸軍は、火砲の機動性の向上を重視していた。それはもちろん機械化や自動車化も視野に入れたものではあったが、機械化や自動車化は「ひとつ先の機動性」であり、当時の日本陸軍にとってのいわば「眼前の機動性」とは、馬による牽引と人力による搬送を、少しでも容易化することだともいえた。

         

         そしてこの「容易化」において、もっとも重要なことは重量の軽減であり、それに続くのが、分解・結合が簡単に素早く行えて、かつ、人力で運ぶのに適したサイズに各部が分解できるという点であった。

         

         日本陸軍は、90式野砲の優秀性は認めていたが、機動性の面で重いことを問題視しており、同格の砲ながら、より機動性の高いものを求めることになった。特に、同じ75mm野砲ながら旧式の38式野砲を改良した改造38式野砲の陳腐化が懸念されていたため、1934年に試作砲を完成させ、各部を修正して1937年に95式野砲として制式化した。

         

         興味深いのは、使用する75mm弾薬である。弾薬の形状は固定弾で、38式野砲や改造38式野砲とは互換性があるが、より高威力でやや重い点だけが問題視されていた90式野砲の弾薬とは互換性がない。しかし、95式野砲は手持ちの旧式砲の弾薬を使い切るまでの「間つなぎ」の砲などではなく、ずっと運用を続ける砲である。つまり、わざわざ新しい砲を採用したにもかかかわらず、同じ75mmの口径ながら互換性のない弾薬2種類を生産し、以降も供給し続けるという、それまでの手間を残してしまったことになる。

         

         もちろん、弾薬の威力が大きければ砲を強化しなければならず、それが砲の重量増加につながるのは当然だ。これを避けることも、旧式弾薬を続けて採用した理由のひとつではあろう。

         

         だが、もし日本陸軍が自国の工業生産力と自軍の兵站能力をしっかりと見据えていたなら、可能な限り生産する弾薬の種類を減らし、その代わりに必須の弾薬の生産量を増加させて、前線に供給する弾薬の種類を減らす代わりに必須の弾薬の供給量を増加させるという方策を講じたのではないだろうか。それができなかったのは、目先の個々の兵器の性能向上には目を向けても、厳しい総力戦下における生産や兵站の全体的な状況を想像できなかった日本陸軍の責任である。

         

         ちなみに95式野砲は優秀で、300門以上が生産された。だが1930年代末ぐらいから、日本陸軍は師団砲兵の装備砲を従来の75mm野砲と105mm榴弾砲の組み合わせに代えて、ドイツのように105mm榴弾砲と150mm榴弾砲の組み合わせへと変更しようと考えていたため、本砲の生産数は延びなかった。

         

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        過去記事

        白石 光しらいし ひかる

        1969年、東京都生まれ。戦車、航空機、艦船などの兵器をはじめ、戦術、作戦に関する造詣も深い。主な著書に『図解マスター・戦車』(学研パブリック)、『真珠湾奇襲1941.12.8』(大日本絵画)など。

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