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一家の没落とともに世を去った藤原定子

紫式部と藤原道長をめぐる人々⑰


4月28日(日)放送の『光る君へ』第17回「うつろい」では、疫病から民を守るために奮闘する藤原道長(ふじわらのみちなが/柄本佑)の様子が描かれた。一方、疫病から回復したまひろ(のちの紫式部/むらさきしきぶ/吉高由里子)は、何かを書くという衝動にかられていく。


 

■独裁者・藤原道隆の寿命が尽きる

平安宮内裏跡(京都府京都市)。宮中で繰り広げられた熾烈な政治闘争の舞台であり、説明板には、この地が『源氏物語』の中心的な舞台であったことも記されている。

 

 悲田院(ひでんいん)で都にはびこる現状を目の当たりにした藤原道長は、救い小屋を設けることを思いつく。ところが、関白の藤原道隆(みちたか/井浦新)は疫病対策に後ろ向きで、むしろ道長の提言を疎ましそうに遠ざけるばかりだった。そこでやむなく、道長は私費を投じての建設を決意。妻の源倫子(みなもとのともこ/りんし/黒木華)も賛同した。

 

 そんななか、かねてより体調を崩していた道隆が倒れた。何者かの呪詛(じゅそ)を疑う道隆だったが、陰陽師の安倍晴明(あべのはるあきら/せいめい/ユースケ・サンタマリア)は寿命と断じる。宮中はにわかに騒がしくなり、早くも道隆の後継をめぐってさまざまな思惑がうごめき出した。

 

 その頃、音信が途絶えていたさわ(野村麻純)がまひろのもとを訪れる。さわは、まひろからの手紙をすべて送り返していたが、実は内容を書き写し、まひろに追いつこうとしていたと告白した。自らの書いたものが人の心を動かした――。そう感じたまひろは、思わず筆を執らずにはいられなかった。

 

 995(長徳元)年410日、息子の藤原伊周(これちか/三浦翔平)をはじめ一族の将来を案じながら、道隆は43歳でこの世を去っていった。

 

■一条天皇は定子に変わらぬ愛を捧げ続けた

 

 藤原定子(ていし/さだこ)は、976(貞元元)年に藤原道隆の娘として生まれた。母は、式部大輔従二位高階成忠(たかしなのなりただ)の娘である高階貴子(きし/たかこ)。同じ母を持つ兄弟に、藤原伊周、隆家(たかいえ)、原子(げんし)などがいる。

 

 定子の祖父・藤原兼家(かねいえ)は、病没する直前となる990(永祚2)年1月に、まだ11歳だった一条天皇を元服させた。これを受け、同月中に当時14歳だった定子が入内。同年2月に女御、同10月には中宮へと昇格した。

 

 夫婦仲はきわめて良かったと伝えられている。定子の女房を務めた清少納言(せいしょうなごん)の『枕草子』によれば、一条天皇は、定子が内裏を退出している時は、毎日のように手紙を書き送っていたという。

 

 また、歌や漢詩といった教養に優れ、気高さを感じさせる一方、親しみやすいと『枕草子』では定子を絶賛している。その才媛ぶりは、勅撰(ちょくせん)和歌集に選ばれるほどの歌人であった、母の高階貴子の影響もあったと考えられる。

 

 一条天皇の寵愛を一身に受け、妹の原子も995(正暦6)年に居貞親王(おきさだしんのう/のちの三条天皇)の後宮に入るなど、道隆の一族は栄華を極めた。

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過去記事

小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。近著に『「最弱」徳川家臣団の天下取り』(エムディエヌコーポレーション/矢部健太郎監修/2023)、執筆協力『歴史人物名鑑 徳川家康と最強の家臣団』(東京ニュース通信社/2022)などがある。

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