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20歳以上若い妻と死ぬまで子作り パワフルすぎた俳人・小林一茶の「最期」 

炎上とスキャンダルの歴史


「雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る」などやさしい俳句で有名な小林一茶。52歳で若い嫁をとり、1日に何度も、生理中であっても性行為を妻に強い、ついには死なせてしまう。「財産を子どもに継がせたい」という一心で子作りに励むのだが……。


  

■セックスで妻を殺してしまう

 

勝峯晋風「一茶発句集」より

 

 江戸時代を代表するモラハラ、セクハラ、パワハラの権化だった俳人・小林一茶。

 

 数え年52歳で迎えた最初の妻・菊との13年間の結婚生活の中で、毎日のように、それも1日何回も妻には交合――つまり性行為を強いていました。生理開始から3日目でも相手させたという記録を日記に残しているので、相当な鬼畜です。

 

 一茶がセックス中毒だっただけでなく、比較的裕福な農民だった実父から遺産相続した信濃(現在の長野県)の土地や財産を、自分の血を引く男の子に継がせたいという要求に突き動かされてしまっていたことは考慮すべきでしょう。

 

 しかし、文政6年(1823年)には第四子・金三郎が亡くなり、その後には菊も病(おそらく一茶が伝染させた梅毒)に倒れて絶命しました。セックスで妻を殺してしまったわけです。

 

■半身不随でも、嫁をもらい「性行為」を続けた

 

 菊が亡くなると、一茶は二人目の妻・雪と62歳で結婚しましたが、没落したにせよ武家出身の雪と一茶はうまくいくわけもなく、半年で離婚しています。

 

 この頃、一茶にはすでに脳梗塞の発作で半身不随と言語障害が出ていて、村を襲った大火事のせいで、自慢の家屋も灰になってしまっていました。

 

 しかし、そんな悲惨な状態でもなお、嫁を欲しがる一茶のために、親戚が当時2歳の男の子づれのシングルマザーの「やを」という女性を見つけ、あてがいます。小林一茶64歳のときの話です。「妻」とは名ばかりの体の良い「介護人」、もっというと女奴隷のようなものでしょうか……。

 

 考えるだけでも恐ろしくなりますが、一茶は死ぬ直前まで句作りと「交合」は続けていた模様です。

 

■辞世の句を作らなかった理由

 

 若い頃から俳諧師として活躍していたにもかかわらず、一茶は松尾芭蕉などのようには大家にはなれませんでしたから、実父の遺産相続で受け継いだ財産が「すべて」なのです。

 

 すでに家を新築する資金はなく、経済と健康の両面で余裕がなくなった一茶は、かろうじて焼け残った土蔵――つまり物置で寝起きするしかありませんでした。

 

 夏は土蔵からホタルが見られたそうですが、逆にいうと、それくらい立て付けが悪い空間だったということです。寒くて長い信州の冬をどうやって乗り越えていたのでしょうか……。

 

 文政10年(1828年)1119日、一茶はとつぜん亡くなりました。辞世の句らしいものは何も残していません。長年、跡継ぎの子どもがほしいという一念でこの世にしがみついているゾンビのような一茶でしたから、体調不良が常態と化しており、死ぬ気などなかったのでしょう。

 

 やりたい放題の一茶にはふさわしい終わりといえるかもしれませんが、一茶の死後、「やを」のお腹には彼の子どもの命が宿っていることが判明し、奇跡的に一茶の梅毒と目される病に冒されず、元気な女の子が生まれました。

 

 しかし残念ながら、娘に引き継がせるべき財産といえるようなものはすべて、一茶が使い果たしてしまった後だったようです。

 

 

 

画像…勝峯晋風 編『一茶発句集』,古今書院,大正15. 国立国会図書館デジタルコレクション 

 

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堀江宏樹ほりえひろき

作家・歴史エッセイスト。日本文藝家協会正会員。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。 日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。最新刊は『日本史 不適切にもほどがある話』(三笠書房)、近著に『偉人の年収』(イースト・プレス)、『本当は怖い江戸徳川史』(三笠書房)、『こじらせ文学史』(ABCアーク)、原案・監修のマンガに『ラ・マキユーズ ~ヴェルサイユの化粧師~』 (KADOKAWA)など。

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