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藤原道長の父・兼家の正体とは? ドロドロの権力争いの末に成り上がった!?

今月の歴史人 Part.2


藤原最盛期に君臨した政治家・藤原道長。その父である兼家とは、どのような人物だったのだろうか?


 

■外戚の地位をめぐる、同族間の骨肉の争い

 

藤原兼家(菊池容斎『前賢故実』)

 

 康保3年(966)、藤原道長は兼家の四男として誕生した。兼家の家系は代々天皇と外戚関係を結び、摂政・関白(摂関)の地位を継承してきた藤原氏北家の主流に当たる。道長が生まれた頃、村上天皇は兼家の姉安子との間に皇子憲平をもうけて皇太子に立てており、兼家も将来、天皇の外戚になることが約束されていた。

 

 だが、道長が生まれる6年前の天徳4年(960)、兼家の父である右大臣師輔は摂関にならずに死去し、道長が誕生した頃には、師輔の兄である実頼が左大臣として政権を主導していた。しかも、兼家の上には兄である伊尹・兼通が存在した。このことから考えると、兼家は道長が生まれた頃には全く期待される存在ではなかったといえるだろう。

 

 ところが、道長誕生の翌年、村上天皇が没し、皇太子憲平が即位して冷泉天皇となると、兼家は40歳にして頭角をあらわしはじめる。冷泉は病弱で精神を病んでいたといわれるが、兼家はそんな天皇に気に入られて蔵人頭となり、安和元年(968)11月には従三位の位階を授けられて公卿となった。

 

 この昇進で、彼は従四位上であった4歳上の次兄兼通の位階を追い抜いたのである。しかも、安和3年5月、伯父の摂政実頼が没すると、長兄の左大臣伊尹が代わって摂政となったが、2年後の天禄3年(972)11月、伊尹は4歳の若さで急死してしまう。これによって兼家は兄弟の中で官位トップとなり、将来の摂関候補として急速に台頭したのである。

 

 ただ、兼家はそれから、すんなりと摂関になれたわけではなかった。精神を病んだ冷泉に代わり弟の円融天皇が即位すると、冷泉の側近だった兼家は遠ざけられて兄の兼通が重用された。円融は伊尹が没した後の関白に兼通や、実頼の子の頼忠を任じ、反対に兼家は出仕を停止されて失脚したのである。

 

 それでも、兼通・頼忠が入内させた娘が皇子を生まないなか、兼家が入内させた娘詮子が天元3年(980)、皇子懐仁を出産すると次第に状況は変わっていった。永観2年(984)、円融が退位すると、冷泉の皇子である師貞親王が即位して花山天皇となり、懐仁が皇太子に立てられたのである。

 

画像:国立国会図書館デジタルコレクション 

 

監修・文/樋口健太郎

歴史人2024年2月号「藤原道長と紫式部」より

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