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徳川家康の2人の正妻を襲った悲劇とは? 夫に処断された築山殿と愛されなかった朝日姫

徳川家康の「真実」


2023年大河ドラマ『どうする家康』のヒロインともいえるのが、徳川家康最初の正室だった築山殿(ドラマでは瀬名)である。今川氏時代から自身を支えてくれる妻と嫡男に恵まれた家康は、なぜ2人を自らの手で処断したのだろうか。そして2人目の正室・朝日姫とはどのような人物だったのだろうか。ここでは、家康の2人の正室について取り上げる。


 

■正室と嫡男を失った「築山事件」の発端は嫁姑問題だった

生涯で多数の側室をもった家康だったが、正室は築山殿と朝日姫の2人のみ。

 家康の嫡男・信康と信長の娘・徳姫の結婚は、悲劇のはじまりだった。結婚後、徳姫は女子を2人産んだものの、家督を継ぐ男子には恵まれなかった。そこで、一計を案じた築山殿は、徳川家の家臣・浅原氏の娘を信康の側室とし、待望の男子が誕生するように仕向けたのである。この築山殿の配慮は、かえって徳姫の反感を買ったようだ。

 

 天正7年、徳姫は『十二ヶ条の訴状』を父・信長のもとに送りつけ、築山殿と信康が甲斐の武田家と内通していると告発した。この一事によって、信長は家康に築山殿と信康の厳しい処分を迫ったといわれている。

 

 築山殿は信康の助命嘆願をする岡崎から浜松へ向かったが、その途中で家康の家臣によって殺害された。間もなく信康も切腹した。しかし、家康が2人を処分したのは、信長の命令ではなく、武田派だった2人を粛正することで、家中の結束を図ったのが正しい理解とされている。

 

■夫と無理やり離縁させられ、政略結婚を強いられた朝日姫

 

 天正12年、家康は織田信雄とともに豊臣秀吉に兵を挙げたが、結局は和睦を結ぶことになった。秀吉は家康に上洛を促したが、警戒心からかなかなか実現しなかった。そこで、秀吉は警戒心を解くため、母の大政所(天瑞院)を岡崎(愛知県岡崎市)に向かわせた。さらに、秀吉は家康との関係を強めるため、妹の朝日姫を輿入れさせたのである。

 

 朝日姫は天文12年、父・筑阿弥(再婚後の夫)の娘として誕生した。母は天瑞院、兄は豊臣秀吉である。成長した朝日姫は、尾張国の地侍である佐治日向守と結婚したという。

 

 天正12年、先述のとおり、秀吉は、朝日姫を家康のもとに嫁がせようとした。そして、堀尾吉晴・生駒正俊を派遣し、朝日姫の夫・佐治氏に500石の加増を条件として離縁を命じたのである。

 

 秀吉は離縁を確認後、家康に朝日姫の輿入れを打診した。家康はこれを承諾し、天正14年に後室として朝日姫を迎え入れた。ときに朝日姫は44歳、家康は45歳だった。朝日姫は浜松城から駿府城に移ったので、駿河御前と呼ばれた。

 

 しかし、朝日姫はわずか2年間を家康と生活をともにしただけで、京都の聚楽第(じゅらくだい)へ引き返した。実母・大政所の病気見舞いが理由である。以後、朝日姫は家康のもとに帰ることなく、天正18
年に聚楽第で没した。享年48歳。

 

監修・文/渡邊大門

(『歴史人』2022年8月号「徳川家康天下人への決断」より)

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