『お米はどこからやってきたの?』米作りの歴史から、さまざまな問題解決の突破口を探してみよう!
古代のきほん
秋、黄金色の田んぼに稲穂が揺れる景色は、日本の原風景と言えるものではないでしょうか。「お米大好き!」「毎日食べる!」という人も多いですよね。今回は、お米をはじめとする弥生時代の食生活と、米作りにともなって起こった大変革について見てみます!
日本人の食の原点ともいえる米作りは、縄文時代の末から弥生時代の初頭にかけて渡来し、東北日本まで広まりました。
弥生時代は今から約3000年前に始まり、約1200年続いた時代です。
それ以前の縄文時代は、狩猟や木の実の採集などに頼っていましたが、お米の登場によって日本列島の住人の食生活が大きく変わりました。
食事だけではありません。
米作りは、社会のあり方や、人々の意識まで大きく変えたのです。
■お米はどこからやって来たの?

石包丁(出典:colbase)
米は中国大陸や朝鮮半島から九州に伝わりました。
けれど意外な事に、インドネシアなどの熱帯由来の品種の痕跡も、案外たくさん見つかっているようです。
こちらの品種は台湾から沖縄を経て、九州に伝わったのでしょう。
中国大陸由来の品種と、熱帯由来の品種が、日本の同じ遺跡から出土したこともあるようですよ。
弥生時代の人々は品種を絞らず、いろんな可能性を大事にしながら栽培していたのかもしれません。
もし、どちらかの品種が冷害などでうまく育たなくても、別の品種も育てていればリスクも減らせますしね。
また、面白い実験結果があります。
中国大陸由来の稲と、熱帯由来の稲は、どちらも栽培期間が長い品種ですが、この二つをかけあわせると、栽培期間が短い品種が発生するらしいのです。
こういった変異が起こったからこそ、稲は日本の寒冷地にも適応して、急速に広まったのかもしれません。
■スプーンにフォークは、日本古来の食器だった⁉
お米は、小麦やアワ、ヒエ、豆などと混ぜて雑炊のようにして食べていました。
そのため食事には箸ではなくスプーンが使われていました。
フォークのような木製品も見つかっています。
なんだか欧米風ですね。
箸もあるにはありましたが、トングのような形をしていました。
また、この頃からお茶碗や小皿など、個人用のお皿も発達しました。
弥生時代から、社会に格差ができ始めたので、他人のものと自分のものを区別する必要があったのかもしれません。
■遺物から探る家畜の歴史!

発掘されたイノシシの骨(静岡市立登呂博物館蔵)
お米だけじゃなくて、おかずも大事ですよね。
縄文時代と同じように、魚介類、シカ、イノシシなどを食べていたようですが、イノシシだけでなくブタも食べていたようです。
ブタはイノシシを改良して作った家畜です。
おそらく村で飼育していたのでしょう。
弥生時代のブタは現代のものよりもイノシシに近い姿をしていましたが、イノシシよりも筋肉が退化して丸顔で、骨が分厚いです。
おもしろい事に、歯槽膿漏(しそうのうろう)になったブタの骨も見つかっています。
きっと、やわらかい残飯ばかり与えられていたのでしょう。
■米作りによって引き起こされた〝格差社会〟

ネズミ返し
弥生時代、米作りや家畜によって食糧事情が安定し、人口が増加しました。
けれど米作りには、水や土地が欠かせません。
人口が増えると、水や土地をめぐって他の集団と衝突が起こり始めました。
こうして縄文時代には無かった「戦い」が始まったのです。
また集団を率いるために、有力者が登場しました。
有力者の墓には玉などの副葬品が入れられ、他の人の墓とは区別されます。
そして親の格差は子どもに引き継がれ、格差社会とその世襲化が生まれたのです。
【今回のまとめ】
弥生時代、食糧事情は安定しましたが、引き換えに、現代社会と同じ「戦争」、「格差」といった問題も生まれました。
現在でも、戦争や格差の問題は、歴史や経済構造などが絡み合っていて、簡単には解決できません。
けれど、ここでもう一度、弥生人の米作りを思い出してみてください。
弥生人は品種を絞らず、異なる品種の稲を栽培していました。
いろんな可能性を大事にしていたのです。
可能性を組み合わせることによって、問題解決の思わぬ突破口が生まれるかもしれませんよ。
【参考文献】
「図説 邪馬台国物産帳」河出書房新社 柏原精一
「週刊 新発見! 日本の歴史 8号 邪馬台国と卑弥呼の謎」朝日新聞出版
「稲の日本史」 佐藤洋一郎 角川ソフィア文庫