ドロドロの家督争い、下剋上、暗殺… あまりにも過酷な「戦国武将の戦い方」とは?
戦国レジェンド
勢力や領土を拡大するために、武将たちが様々な方策を巡らしてきた戦国時代。「戦国の雄」となるため、彼らはどのように戦ってきたのだろうか?
■守護たちが国人らに逐われ没落する「下剋上」

『永禄四年信州川中島大合戦』東京都立中央図書館蔵
「ライバル」とは「好敵手」とも言い換えられる。だが、日本の戦国時代のライバルは、時として好敵手というよりも、憎悪の対象になっていく。そこには、単なる領土争いだけではなく、兄弟や親族間のドロドロとした家督争いが絡んだり、家臣が主君を引きずり下ろす下剋上の世界が繰り広げられるからである。その結果、戦国のライバルは好敵手というよりはむしろ敵対関係を意味し、互いを力によって屈服させるという争いに発展していった。
室町幕府の権力基盤ともなった守護大名(足利幕府から任命され、その国の支配を委任された守護をいう)は、「応仁の乱」後に領国の支配権を家臣ともいえる守護代や地域の豪族である国人層に奪われ、相次いで没落した。
戦国時代末期までその領国を維持し得た守護大名(後に戦国大名に衣更/ころもがえ/する)は武田・今川・佐竹・大友・島津氏など数えるほどとなり、主家を逐(お)って成立した戦国大名は後北条・長尾(上杉)・斎藤・浅井・朝倉・織田・長宗我部・龍造寺・有馬氏など多数に上る。
これら戦国大名は、国人層・土豪層など地域の小領主を自己の家臣団に組み込み、田畑を持つ農民に対する直接支配を強めた。そうした支配を領国一円の政治・経済などあらゆる分野に及ぼすために、戦国大名によっては分国法(ぶんこくほう/家法/かほう)の制定、城下町の建設、検地・商工業の保護統制、新田開発・灌漑治水(かんがいちすい)などの整備に努めた。ここから、領土意欲が増した戦国大名同士の激烈な闘争が各地で展開されるに至った。
戦国のライバル関係で、最も顕著なのはやはり隣国同士の「領土争い」であろう。戦国大名の変遷をマップで読み解くと、そうした事実が明確に示されている。
そこからは、戦国武将たちが勢力や領土を拡大するために、様々な方策を巡らしていることも分かる。同盟を結び、離反し、謀略も厭(いと)わない。領土を得るための多数派工作もあり、不意打ちや暗殺などもあった。
■信玄vs.謙信の争いは肥沃な重要拠点を巡って起きた
東北地方の津軽・南部(なんぶ)氏から九州の相良(さがら)・島津氏までほぼ50の戦国大名が覇を競い、領土争いを繰り広げた戦国時代である。そのすべての国と国とが地続きであり、戦国大名は隣国の領土を手に入れられる限り手に入れようとした。そうした争いはこの時代の全国各地に見られる。
領土を巡っての最も有名な戦いは、武田信玄(たけだしんげん)と上杉謙信(うえすぎけんしん)による5回の「川中島合戦」であろう。単純に領土という観点から見れば「両雄が戦った理由」は土地が肥沃(ひよく)であるうえに、古代からの聖地ともいえる善光寺(ぜんこうじ)が近くにあり、交通の要衝でもあった。この地域を制することで、食糧確保と各地への進撃が可能になる、というメリットを「川中島」は持っていたのである。
兄弟や親族間の家督争いも、しばしばライバル関係の対決とされる。謙信没後の上杉景勝(かげかつ)と景虎(かげとら)、ふたりの養子による争い「御館(おたて)の乱」は、家督を巡るライバルの抗争であった。結果として景勝が勝利を制したが、越後全土を巻き込む合戦になった。また、美濃の斎藤道三(さいとうどうさん)と嫡男・義龍(よしたつ)との父子による争いもあった。
さらには、伊達政宗(だてまさむね)が弟・小次郎(こじろう)を謀殺(ぼうさつ)したのも、家督争いという兄弟対決の結果であった。織田信長(おだのぶなが)でさえ、家中を二分する家督争いになった元凶である弟・信行(のぶゆき)を謀殺して主導権を確立させている。
兄弟や父子対立というライバル関係よりももっとドロドロした対立が、下剋上による家督争奪である。美濃守護・土岐頼芸(ときよりのり)から家臣であった斎藤道三が下剋上で美濃を奪取した争いである。道三が「美濃のマムシ」と呼ばれるに至る下剋上である。
中国地方では、謀略による下剋上が各地で展開された。守護であった大内氏・京極氏などを下剋上で逐ったのが、陶(すえ)氏であり、尼子(あまご)氏であった。さらにその上前(うわまえ)を撥(は)ねる形で覇権を得たのが毛利元就である。元就は200回に及ぶ戦いでライバルたちに勝ち抜き版図を拡大し、「戦国の雄」となったのである。
監修・文/江宮隆之