太平洋戦争緒戦で大活躍した空母【赤城】
日本海軍海鷲の砦・空母たちの航跡~太平洋戦争を戦った日本空母の横顔~【第2回】
航空機の発達によって、それまで海戦の花形だった戦艦は空母の敵ではなくなった。「大艦巨砲」は「航空主兵」に取って代わられたのだ。当時の日本海軍は、アメリカやイギリスにも負けない空母保有国だった。やがて太平洋の蒼空は、彼我の空母艦上機とって修羅の場と化すことになる。第2回は、国際的な軍縮条約の影響を受けて、高速の巡洋戦艦から空母へと「変身」をとげた「赤城(あかぎ)」である。

1935年から1938年にかけて行われた、3段式飛行甲板から1段式全通飛行甲板への改装を終えた後の「赤城」の姿。
日露戦争で大国ロシアのバルチック艦隊を打ち破った日本海軍は、「海国」としてさらに躍進すべく海軍力の増強を続けていた。そのような流れの中で、かねてより起草されていた88艦隊計画の推進が始まる。その中に、天城型(あまぎがた)巡洋戦艦の建造計画も含まれていた。
しかし、第1次世界大戦後の「平時」にもかかわらず、世界各国で膨らみ続けて留まるところを知らない軍事費を抑制するべく、1922年に軍艦の建造と保有隻数を規制するワシントン海軍軍縮条約が締結された。そして日本も批准国だったため、海軍の増強計画にも大きな変更が生じた。
戦艦や巡洋戦艦など、当時建造中だった主力艦の保有隻数に制限がかかったため、それらのかなりのものを建造中止、または別用途に向けねばならなかったのだ。
こうして、建造中の天城型巡洋戦艦1番艦「天城」と2番艦「赤城」が、空母へと改造されることになった。戦艦同様の主砲を備えながらもより高速の巡洋戦艦は、高速化のため全長が長くなる傾向があり、しかも空母に求められる高速が出せるので、改造には適しているといえた。
かくして、1920年12月6日に呉海軍工廠(くれかいぐんこうしょう)で起工されていた「赤城」は、イギリスが保有していた大型巡洋艦から改造された空母の「フューリアス」などを参考にして、3段の飛行甲板を持つ空母として1927年3月25日に竣工した。
当時の複葉の艦上機を多数発艦させながらも、同時に離艦もできるようにするため3段の飛行甲板とされたのだが、すぐに艦上機の性能が向上して長い飛行甲板が必要となり、1938年に1段の長い全通飛行甲板への大改装が完了している。
この姿で太平洋戦争を迎え、真珠湾攻撃時の南雲(なぐも)空母機動部隊の旗艦として、南雲忠一(なぐもちゅういち)中将が将旗を翻した。そして以降の日本の第1段作戦における連戦連勝を支えた。
ところが、日本が第2段作戦に移行した直後の1942年6月に戦われたミッドウェー海戦において、「赤城」は他3隻の日本空母とともにアメリカ艦上急降下爆撃隊に奇襲されて大破。最終的に味方の駆逐隊による雷撃をもって撃沈処分された。1942年6月6日のことだった。約1600名の乗組員中、約220名が戦死した。