「有名人特有の生活水準」を落とせず、生活に困っていた与謝野晶子
炎上とスキャンダルの歴史
■貧困層向けの「白米安売りチケット」をもらおうとするも…

与謝野晶子
女性知識人というのは何かと叩かれ、炎上しやすい立場なのかもしれません。
コロナ禍においては、自営業者を中心に何度かコロナ支援金のプロジェクトが打ち出されましたが、不正受給問題が大きな社会現象となりました。
同じように、本当はそこまで貧しくはないのに、米の値段が安くなるチケットを取得しようとして、それを水際でストップされたことが世間に漏れてしまったのが、大正時代の与謝野晶子でした。
大正7年(1918年)8月28日付けの「読売新聞」内、「よみうり婦人付録」というコーナーによると、晶子が本当は「窮民(=貧困層)」ではないのに、東京市(当時)が貧困層に配っていた「白米廉売券」をもらおうとして、麹町区(現在の千代田区)の区役所から拒否されたことが話題になったというのです。
たしかに与謝野家は極貧ではなかったかもしれませんが、世間が抱いているイメージのように裕福というわけでもなかったようです。当時の日本は「米騒動」の真っ只中で、4年前にくらべると、米の価格が約4倍に高騰し、折からのインフレによる物価高もあって、庶民の生活は非常に苦しくなっていました。
与謝野晶子と、彼女の夫・鉄幹(てっかん)の二人も、居住地の麹町区役所に「白米廉売券」の交付を請求したのだそうですが、すっぱりと拒否されてしまいました。彼女はこの時までに、彼の子供を10人も産み、育てていました。
翌大正8年にはもう一人産んでおり、晶子本人が「まったく必要に迫られてゐますから(米が安くなるチケットを)お願ひを致した訳ですけれども」と主張したことは、嘘ではないでしょう。
しかし、彼女のように世間に知られた文豪で、一家が「大きな玄関構えの家で、取次に女中が出てきたりするやうな家」に住んでいる場合、白米廉売券はなかなか交付してもらえなかったのでした。
■有名人特有の生活水準を落とせなかった?
晶子の夫の鉄幹は、明治後期にロマンティックで情熱的な詩歌を集めた雑紙『明星』を主催した有名人で、当時は乙女たちのハートを鷲づかみにしていたものの、大正時代にはすでに時代遅れとなっていました。
この頃にはすでにほとんど稼げない存在になっていたので、当時39歳で働き盛りだった晶子が一馬力でがんばって、夫と10人の子供を養うしかないという現実があったのは確かです。
それに、当時の文筆業者は現在とは比べ物にならないくらい崇め奉られる存在でしたから、世間に対する体面もあって、小さい家になど暮らすことは難しかったでしょう。それこそ、かつて一世風靡した与謝野鉄幹が掘っ立て小屋に住んでいることが知られたら、大炎上してしまいます。
元・有名人特有の「生活水準を落とすに落とせず、だからよけいに苦労する」という実態は、なかなか当時の区役所には理解してもらえなかったのかもしれません。
画像…与謝野晶子詩歌集(創元社 1952)出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)