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家康の饗応をめぐる信長と光秀の「摩擦」

史記から読む徳川家康㉗


7月16日(日)放送の『どうする家康』第27回「安土城の決闘」では、織田信長(おだのぶなが/岡田准一)の殺害を家臣らに打ち明けた徳川家康(とくがわいえやす/松本潤)が、招待された安土城(あづちじょう)で過ごす様子が描かれた。2人きりとなった信長は、家康に意外な告白をしたのだった。


 

信長暗殺計画がいよいよ動き出す

滋賀県近江八幡市に残る安土城跡。1576(天正4)年に織田信長が築いた居城で、地下1階、地上6階建てという、当時、最も天下人に近かった信長にふさわしい、独創的で豪華絢爛な城だったと推測されている

 織田信長を討つ決意を固めた徳川家康は、信長の居城である安土城へ向かった。富士遊覧の接待の礼として、信長から招かれたものだ。

 

 宴では、明智光秀(あけちみつひで/酒向芳)の準備した豪勢な膳が用意された。ところが、家康が鯉の料理が臭う素振りを見せると、和やかな場が一変。激怒した信長は光秀を幾度も殴りつけ、宴は唐突に終わった。

 

 その夜、信長と家康はふたりきりで杯を傾ける。そのなかで、天下を目指す者として、ふたりは対峙。意見は対立した。信長は、自分に対する家康の殺意を感じ取りながら、「俺の代わりをやる覚悟があるなら、俺を討て」と、受けて立つ構えを見せた。

 

 果たして数日後、信長は家康に宣言した通り、わずかな手勢とともに京の宿泊先である本能寺に到着。京では、信長の首を狙う家康が準備を万端に整えていた。

 

家康が京に向かったのは信長の勧めだった

 

 徳川家康が織田信長の居城である安土城(滋賀県近江八幡市)を訪ねたのは、1582(天正10)年515日のことだった。名目は、武田勝頼(たけだかつより)を滅ぼした後、駿河(するが)・遠江(とおとうみ)を拝領した御礼言上のためである(『信長公記』『三河物語』『多聞院日記』)。この時、武田家旧臣の穴山梅雪(あなやまばいせつ)も随行しているのは、梅雪も信長に本領を安堵されたからだ(『信長公記』)。家康が安土城を訪れたのは、この時が初めてだったらしい。

 

 信長は、家康の饗応役(きょうおうやく)に家臣の明智光秀を任命(『信長公記』)。接待の準備において信長と光秀とは事前に打ち合わせを行なっているが、両者の意見が合わない点があり、信長は光秀を一度か二度、足蹴にしたという(『日本史』)。

 

 これが事実であるかどうかは別にして、光秀は京や堺からめずらしい食材を取り寄せ、同月15日から17日の3日間にわたって家康を接待している(『信長公記』)。

 

 なお、準備していた魚が腐っていたことに激怒した信長が光秀の饗応役を途中で解任したとする説(『川角太閤記』)もあるが、後世の創作と見る向きが少なくない。

 

 その頃、織田家家臣の羽柴秀吉(はしばひでよし)は、信長の命による中国攻めの真っ最中で、備中高松城(岡山県岡山市)を水攻めにしていた(『信長公記』「溝江文書」)。そこへ、安芸国(あきのくに/現在の広島県西半部)から毛利輝元(もうりてるもと)らが加勢に駆けつけるとの情報を耳にした信長は、これを好機と捉え、自ら出陣して毛利勢を滅ぼし、そのまま九州地方まで平定してしまおうと計画。光秀ら家臣たちにそれぞれ出陣の準備をするよう指示した(『信長公記』『惟任日退治記』)。命を受けた光秀は、17日に安土城から坂本城(滋賀県大津市)に帰城している(『信長公記』)。

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小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。近著に『「最弱」徳川家臣団の天下取り』(エムディエヌコーポレーション/矢部健太郎監修/2023)、執筆協力『歴史人物名鑑 徳川家康と最強の家臣団』(東京ニュース通信社/2022)などがある。

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