「設楽原の戦い」で勝頼は鉄砲を軽視していなかった
史記から読む徳川家康㉒
6月11日(日)放送の『どうする家康』第22回「設楽原(したらがはら)の戦い」では、武田軍と対峙した徳川家康(とくがわいえやす/松本潤)の様子が描かれた。この戦いに備え、織田信長(おだのぶなが/岡田准一)は3000丁もの鉄砲を用意。戦国最強の武田軍率いる武田勝頼(たけだかつより/眞栄田郷敦)は、信長の思惑通りに突撃せざるを得ない状況に追い込まれた。
戦国最強の武田軍が一方的な攻撃にさらされる

長篠設楽原古戦場跡に復元されている馬防柵。設楽原の中央に流れる連吾川に沿って、全長2kmにわたって三重に設けられたといわれている。
1575(天正3)年5月20日、織田・徳川連合軍と武田軍は長篠設楽原(ながしのしたらがはら)で睨(にら)み合っていた。一向に攻めてこないのを訝(いぶか)しむ武田家家臣の山県昌景(やまがたまさかげ/橋本さとし)や穴山信君(あなやまのぶただ/田辺誠一)と同様、一刻も早く長篠城を救いたい徳川家康も不安を募らせていた。
たまりかねた家康は、織田信長に鳶ヶ巣山(とびがすやま)の武田軍の砦(とりで)を急襲する策を進言する。危険な任務だったが、徳川家家臣の酒井忠次(さかいただつぐ/大森南朋)が買って出た。
鳶ヶ巣山砦を攻められたことで信長の手の内を見破った武田勝頼だったが、家臣たちに出陣を命令。出撃することは信長の術中にはまることを意味していたが、亡き父・武田信玄(しんげん)を超えるため、と家臣を鼓舞した。
果たして武田兵が猛然と進撃を開始したが、彼らを待ち受けていたのは、織田軍が用意した3000丁もの鉄砲を駆使した一斉射撃だった。戦国最強を誇った武田軍の兵は、柵の向こうにいる織田軍にほとんど手出しのできないまま、壊滅させられた。家康の嫡男・信康(のぶやす/細田佳央太)が「なぶり殺しじゃ……」と呆気(あっけ)にとられるほどの圧勝だった。
圧倒的な軍事力を目の当たりにした家康は、信長の配下となることを決意。一方、心優しかった信康が合戦にのめり込む様子を見て、信康の母であり、家康の正室である瀬名(せな/有村架純)は、不安を覚えるのだった。
設楽原の戦い後も武田軍との領土争いは継続
1575(天正3)年5月17日、織田信長の命により、筒井順慶(つついじゅんけい)は岐阜に50名の鉄砲隊を派遣している(『多聞院日記』)。同月18日、信長は極楽寺山(ごくらくじやま/愛知県新城市)に布陣。信長の嫡男・信忠は新御堂山(しんみどやま/愛知県新城市)に陣を張った(『信長公記』)。
陣を移動させている間、織田軍は遭遇した武田軍を鉄砲で追い払った。この時、信長は武田軍を「根切」すなわち皆殺しにする覚悟を示したという(「細川家文書」)。
同月19日、徳川家康は家臣の石川数正(いしかわかずまさ)、鳥居元忠(とりいもとただ)に武田軍の騎馬隊に備えた、馬による進軍を防止する柵を設けるよう指示(「龍城神社文書」)。翌20日、守りを固める織田・徳川連合軍に対し、勝頼は「敵は手段に窮(きゅう)して進撃ができず、ちぢこまっている有様だ」と評価した(「武田勝頼書状」)。馬場信春(ばばのぶはる)、内藤昌豊(ないとうまさとよ)、山県昌景、穴山信君ら諸将は、勝頼に一時退却を進言し、信長の帰国後に再侵攻することを勧めたが、勝頼は承知しなかった(『当代記』)。
同月21日午前8時頃、徳川家家臣の酒井忠次は信長の命に従って別働隊を率い、鳶ヶ巣山砦を奇襲(『信長公記』『三河物語』)。別働隊は鳶ヶ巣山砦だけでなく長篠城を取り囲む砦をすべて占領した。別働隊と織田・徳川連合軍とで武田軍を挟み撃ちするつもりだったようだ。
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