戦国で最も知られるライバル武田信玄vs上杉謙信!ふたりはなぜ戦ったのか⁉
戦国レジェンド
武田信玄と上杉謙信は戦国時代のなかでももっとも有名なライバル関係をもった武将だろう。ふたりの性格は正反対であるからこそ、互いの「正義」をぶつけあう激しい戦いを繰り広げたのだろう。ふたりはどんな理由で激突したのかをここでは紹介する。

川中島古戦場に立つふたりの像。
■石高が低く経済力のない甲斐信玄は広い領土が欲しかった

山梨・甲府駅前にたつ武田信玄像。現在の県民から英雄として人気を集める。
戦国時代の合戦で最も知られる戦いは、甲斐(かい)の武田信玄(たけだしんげん/晴信/はるのぶ)と越後の上杉謙信(うえすぎけんしん/長尾景虎/ながおかげとら)による「川中島合戦」であろう。信濃北部の川中島を中心にして両雄が鎬(しのぎ)を削った戦いは、一地方の合戦という枠を超えて、ライバル同士の対決として意識されている。しかも戦いは11年・5回に及んでいる。それだけ信玄にとっても謙信にとっても、川中島周辺、ひいては信濃国が大事であったことになる。
信玄は父・信虎(のぶとら)を駿河に追放して家督を相続すると、すぐに北信濃経略に着手した。その過程で有力国衆(くにしゅう)・村上義清(むらかみよしきよ)、さらには信濃守護・小笠原長時(おがさわらながとき)までも下している。村上・小笠原らは信濃を棄(す)て越後の謙信の元に逃れた。これがきっかけとなって、5回の川中島合戦という長丁場の戦いは開始されるのである。
甲斐国の経済力は極めて低かった。この時代よりも約半世紀後の慶長3年(1598)の各地域の石高を参考にすると、甲斐国は22万7000石、信濃国は40万8000石、越後国は39万石である。
こうした経済力の差が、信玄による信濃侵攻の一因となったことは否めない。国力を増強するためには、広く豊かな領土が欲しい。それが軍団の戦力補強にもつながる。信玄にとっての信濃はそうした意味合いを持っていた。
国力を強くし、周辺地域を抑え、行く行くは海のある国にも進出し、さらには京都を望む。「天下取り」という野望ではなく、傾きかけた室町幕府を甲斐源氏の自分が支えるという「王道」を意識した信玄であった。その第一歩が信濃経略だった。
■謙信は「義」だけにあらず 領土を自衛する側面もあった

謙信の本拠であった春日山城の麓にたつ上杉謙信像。
一方で謙信は、公権力と秩序を重んじた。さほどの領土拡大の意欲はなく、内政手腕を発揮して越後を統一した。「義の人」といわれるほどに自分を頼って援助を求めてきた者は助ける、という姿勢を明らかにしているし、そのように行動した。「我は依怙(えこ)によって弓矢は取らぬ。ただ筋目(すじめ)をもって何方へも合力(ごうりき)致す」という言葉が、謙信の義を語る。村上義清・高梨政頼(たかなしまさより)・小笠原長時などが信玄に逐(お)われて越後の自分を頼って逃げてきたことが、信玄との合戦につながっていく。
だが一方で、謙信側にも信濃・川中島に出陣しなければならない事情もあった。北信濃を得た信玄が、川中島など信濃北部を手に入れれば、甲府から善光寺まで直線距離にして120㎞。さらに善光寺から謙信の居城・春日山(かすがやま)城までは約50㎞という近さになる。川中島周辺を信玄に渡してしまえば謙信の領国も危ない。「義」によって出陣した謙信には、義だけではなく「自衛」のための戦いという側面も含まれていた。これが川中島合戦の真実であろう。
天文22年(1553)4月、信玄は葛尾(かつらお)城を落とし、村上義清を逐った。その直後のことである。5000の軍勢が突然現れて武田軍と戦い、完膚なまでに破った。信玄は後に、これが謙信率いる越後軍団と知り、謙信を恐れた。信玄が取った経略は、相模・北条氏康(ほうじょううじやす)、駿河・今川義元(いまがわよしもと)との「三国同盟」であった。この同盟によって信玄は後顧(こうこ)の憂(うれ)いなく、謙信との戦いに専念できる。
川中島合戦のハイライトは、永禄4年(1561)9月の第4回合戦である。両軍が激突し、信玄・謙信のライバルが直接刃を交えたとも伝えられる激戦は、武田軍の死者4500、負傷者1万3000。上杉軍は死者3400、負傷者6000。双方で合わせて2万6900人もの犠牲を出した。戦いは「前半を上杉、後半を武田の勝ち」と伝えるが、実際に合戦の後に善光寺を含む川中島周辺の領地を得た信玄の勝利といえよう。
しかし信玄はこの合戦で、右腕と頼む弟・典厩信繁(てんきゅうのぶしげ)はじめ山本勘助(やまもとかんすけ)、諸角豊後(もろずみぶんご)、初鹿野源五郎(はじかのげんごろう)など有力家臣を失う痛手を蒙(こうむ)った。
なお永禄7年8月、第5回川中島合戦があったが睨み合い程度で終結する。以後、謙信の目が関東(北条氏)に向かい、信玄の目は駿河国経略に向かうのだった。

歌舞伎の演目としても描かれた信玄と謙信のライバル関係はどの時代でも人気を集める。(東京都立中央図書館蔵)
監修・文 江宮隆之