「空白の4世紀」に王朝交代だけでなく民族レベルの交代があった!? 前方後円墳王権の「途中断絶仮説」
飛鳥時代のはじめに四天王寺が建立された時、上町台地からは石がゴロゴロ出てきたといいます。
それは古墳の葺石や石槨、石棺材ではなかったかという説があります。
■「空白の4世紀」と大和王権成立の謎
戦国期に本願寺のあった上町台地を「石山」と呼んでいました。ですから織田信長勢と大坂本願寺の10年にわたる戦いを「石山合戦」と呼びます。上町台地からは岩や大量の石が出て来ていたらしく、それは古墳があったからだろうと考えられています。実際、6世紀末創建の四天王寺には石棺材が使われていますし、今も展示されています。海に近い百舌鳥古墳群と同じ「見せる」利点が上町台地にあったと思われますので、そこには巨大な古墳の葺石が夕日に輝いていたのだろうか、と考えてしまいます。
しかし、その古墳がどういう人物と来歴のあるものだったかなどについては一切の記録も伝承もありません。そのうえ8世紀のはじめに遷都する平城京造営の時には、いくつも古墳が破壊、削平されています。
遷都の詔を発する元明天皇は「古代の貴人の墓があれば、丁寧にするように」という意味のことばを発していますが、天皇家や中央豪族家の自分たちの祖先にあたる大切な墓というより、かなり他人事的な感じを受けます。
つい最近の調査で、奈良平城宮跡の北側に隣接する佐紀盾列古墳群で、全長200m級の巨大前方後円墳の削平跡が発見されて話題になりました。この古墳跡に佐紀池ノ尻古墳と名前もつきました。大王級の墳墓を破壊しているのはなんともショックな話です。
つまりこの時代にはすでに誰の墓なのかがわかっていなかったのではないかという疑いと、墓に対する尊崇の念もあまり感じられません。中には自分たちの家系につながる古墳もあったでしょうから、それについては祭祀を続けていたのかもしれませんが、巨大な王墓も当時の王権とは無縁のものだったのではないかという疑いを感じます。
という事は空白の4世紀と呼ばれる約150年間の周辺期間には、王朝交代どころの騒ぎではないほどの民族レベルの交代があったのではないかと疑うこともできるかと思います。

兵庫県神戸市にある五色塚古墳。被葬者不明で、大和王権とのかかわりも不明。
撮影:柏木宏之
今の我々も、祖先は一本棒でつながっているという意識をどこかに持っているようですが、実際には何度も王朝は交代し、極端に言えば、民そのものも大交代しているのではないかという説も浮上しています。
現在、最新のゲノム解析で私たち現代人の生体の来歴が詳細に解明されつつあり、それによると、これまでの旧石器人が縄文人に進化し、渡来人が移住して来て弥生ミックスがあったとするストーリーに加えて、古墳時代にまで多くの渡来があって大ミックス化の結果が現代人につながっているという仮説が証明されつつあります。
大和王権創造の400年弱続いた古墳時代に、相当大きな人間的・社会的・文化的変化があったという事になりそうです。もちろんその中心は3世紀後半から5世紀初めまでの空白の4世紀と呼ばれる150年間でしょう。
この間に大和王権が勢力を広く延ばし、前方後円墳が広がり、銅鏡の配布も広がったのは事実です。そしてそれまで存在しなかった馬が導入されて、墓への副葬品が銅鏡から武具馬具へと変わります。相当大きな文化と価値観の変化が見られ、そして古墳文化を引きずりながら飛鳥時代が始まります。この頃には民族的大変革はすっかり完了していたのでしょうか。仏教文化の導入はまた次元の違う大変革で、国家の近代化という視点で観なければならないでしょう。

今城塚古代歴史館展示 の再現鞍。空白の期間に馬が導入されて馬具が発展している。
撮影:柏木宏之
飛鳥時代から奈良時代といえば大和王権が確立して国家となり、東アジアの国際社会に堂々と進出する時代です。国内の記録も残され始めて情景の見えるような時代を迎えます。
するとやはり弥生時代の詳細で総合的な研究と、空白の4世紀にとどまらず大和王権成立の真相を探らなければ、わたしたちの祖先の話を正しく理解できない、ということになります。もちろん非常に困難な研究ですが、実は今を生きる私たちの体内にその秘密が隠されているのかもしれませんね。