なぜヨーロッパは女性君主が立つのか? 日本が女系天皇・女性天皇を排除した「根拠」とは?
世界の中の日本人・海外の反応
■日本における「男系男子」のはじまりは明治の皇室典範
天皇制存続の危機。一夫一婦制に加え、継承可能な者を男系に限り、宮家の数を大幅に減らしたことなどを要因として、かなり前から予測された現象ではある。明治時代に制定した皇室典範では、皇位継承者を男性に限定しているから、なおさらだった。
世界の王室を見渡してみれば、今や女性君主は珍しくなく、近代以降の日本の方がむしろ特異な存在である。なぜ明治日本は女系と女性天皇の誕生を排除したのか。戦後の皇室典範は明治の皇室典範をそのまま踏襲しているから、その答えを導くには明治の皇室典範の成立事情を探る必要がある。
結論を先に述べれば、皇位継承を男系と男性に限定した要因は、ひとつには男尊女卑が露骨な儒教の影響、もうひとつには明治政府が多くの点でプロイセンを模範に仰いだことに求められる。
明治の皇室典範の第1条には、「大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」とあり、皇室典範の起草に当たった柳原前光と井上毅がまとめた「皇室典範草稿」によれば、男系に限定した根拠は『日本書紀』にあるという。
一方、男子に限定した根拠として挙げられているのは、プロイセンとベルギー、スウェーデンの例で、後2者ではその後、女性君主が認められているから、ここで深堀するのはプロイセンだけでよかろう。
ドイツ帝国の母体となったプロイセンは男性原理に支配された軍事国家で、帝位継承を男子に限定した根拠は、6世紀初めに成文化されたサリカ法典にあった。
サリカ法典とはフランク族を構成した小集団のひとつ、サリー・フランク人の慣習法を成文化したもので、ゲルマン民族固有の要素を最も強く保有し、女性が君主になることを厳しく禁ずる条文があると解釈されてきた。
イングランドやスコットランド、スペインなどで続々と女性君主が誕生するなか、ドイツ語圏だけはサリカ法典を根拠に、男子にしか王位継承を認めなかった。1748年にハプスブルク家出身の神聖ローマ皇帝カール6世が亡くなり、娘のマリア・テレジアが父の肩書すべてを継ごうとした時、これに異を唱え、ザクセンやバイエルンの諸侯とプロイセンのフリードリヒ2世が武力行使に打って出た(オーストリア継承戦争)。結局、マリア・テレジアはオーストリア大公とボヘミア王の位を継ぐことはできたが、皇帝位は夫であるロートリンゲン公フランツ・シュテファンに継がせることで、事を収めるしかなかった。
これだけを見れば、プロイセンの主張の方が多くの支持を得たように見えるが、ドイツ諸侯は反ハプスブルク家という一点で利害の一致を見ただけで、女性君主への反対、サリカ法典の順守は単なる口実にすぎなかった。
近年の研究によれば、サリカ法典がフランク社会の現実を忠実に反映していたかは疑わしく、女性による王位継承の否定は拡大解釈であり、父性を重視するカトリックの影響でドイツ語圏でのみまかり通ってきたとの説が唱えられている。
そもそもヨーロッパは女性君主を容認する社会だった。歴史書に名を刻むところでは、ケルトのイケニ族の女王ブーディカを挙げることができる。紀元60年頃、ローマ帝国に対して反乱を起こした傑物で、現在はロンドンのビッグ・ベン(エリザベス・タワー) 近くのウェストミンスター橋の西に、戦車に乗って指揮を執る彼女の雄姿を拝むことができる。
また歴史書にはないが、考古学上の成果から、5000年前のイベリア半島に女性権力者の存在が確認されており、これについてはウェブ版『ナショナルジオグラフィック日本版』が2023年7月10日に配信した記事『約5000年前の権力者は女性だった、定説覆す発見、スペインのイベリア半島』に詳しい。
同じく考古学上の発見としては、スウェーデンのビルカ遺跡にも注目したい。ここにある10世紀のヴァイキングの首長墓に眠るのは長らく男性と信じられてきたが、最近になってⅮNA検査をしたところ、女性であったことが判明した。ヴァイキングはゲルマン民族のひとつだから、ゲルマン社会でも女性君主のいたことが明らかとなった。
中世以前のカトリック世界では、文字は聖職者の独占物に近く、印刷機の発明前であれば書物や文書はすべて手書きで写すしかなかった。男性原理に貫かれたカトリックの価値観に照らし、歴史の改竄や抹消がなかったとは言い切れず、プロイセン国家のあり方はこのような背景を持つ男性原理を根底としていたから、プロイセンが女性の王位継承を否定した根拠と論理は相当無理があると言わざるをえない。

現時点で最後の女性天皇・後桜町天皇の冠を描いたもの/『冕服図帖 上』国立国会図書館蔵