公儀を怖れず平賀源内の遺体を引き取った平秩東作
蔦重をめぐる人物とキーワード㉔
■戯作者から山師までマルチに活動した生涯
平秩東作は、1726(享保11)年に江戸内藤新宿で馬借兼煙草屋を営む稲毛屋金右衛門の子、立松懐之(たてまつかねゆき)として生まれた。幼い頃から家業を助ける傍らで勉学に励み、10歳で父を亡くすと、14歳で家業を継いだ。
唐衣橘洲(からごろもきっしゅう)、朱楽菅江(あけらかんこう)などと同門であることから、狂歌ブームの起こった頃には古参狂歌師として活動。平賀源内(ひらがげんない)や大田南畝(おおたなんぽ)といった当時の文化人とも深く交流し、生涯にわたってその関係を築いた。
その間、戯作や浄瑠璃、儒学まで幅広く手がけた多才な人物として知られ、戯作者、狂歌師、儒者、そして「山師」と呼ばれる事業家としても活動している。代表的な編著には滑稽本『当世阿多福仮面』(とうせいおたふくめん)、紀行『東遊記』(とうゆうき)、洒落本『駅舎三友』(えきしゃさんゆう)、狂歌『狂歌師細見』(きょうかしさいけん)『狂歌百鬼夜狂』(きょうかひゃっきやきょう)などがある。
一方、事業家としては伊豆天城山の炭を売り広めたり、材木問屋を営んだりするなど、盟友である源内の活動と連携して事業を展開。世人から「山師」(やまし)と目されたのは、こうした多方面にわたる事業活動のためだった。
1779年(安永8)年に源内が獄死したのち、罪人である遺体の引き取り手のなかったなか、公儀に目をつけられるのを覚悟の上で引き取ったのが東作だったとされる。また、幕府に追われた勘定組頭・土山宗次郎を匿(かくま)うなど、義に篤(あつ)い人物としての逸話が残っている。
1783年(天明3年)から翌年まで、蝦夷(えぞ)地に逗留して『東遊記』を著した。この蝦夷地探索は隠密行動であり、田沼政権の蝦夷地開発に先駆けた重要な調査活動であった。蝦夷地の状況やアイヌ民族の風俗を詳細かつ的確に記した『東遊記』は、当時の蝦夷地の姿を知る上でも優れた内容で、後の幕府の北方政策に影響を与えた。
1789(寛政元)年3月8日に病死。享年64。息子の一成の記録によれば、「病急ナルニノゾミテ猶談笑シテ終ヲトル(病状が悪化してもなお談笑して生を終えた)」と伝えられる。
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