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三島由紀夫が自決した本当の理由は「給金と待遇への不満」? 渾身の新作も黙殺されて「英雄」にジョブチェンジ

炎上とスキャンダルの歴史

■「英雄」になれなかった文豪

 

 今年(令和5年・2025年)、生誕百周年を迎える文豪・三島由紀夫。昭和45年(1967年)、タイに取材旅行中――のはずの三島由紀夫(当時40歳)は、毎日をただ無為に遊んでいるだけのように見えたそうです。この頃、毎日新聞社のバンコク特派員だった徳岡孝夫は、そんな三島に「こんなに遊んでいて連載は大丈夫なんですか」と質問を投げかけました。

 

 すると三島は「ぼくの連載小説の原稿料、いくらだと思いますか」と、いきなり逆質問してきたそうです。聞いてみると、「一枚三千円ですよ」とのこと(セリフは徳岡孝夫『五衰の人 三島由紀夫私記』から引用)。

 

 もちろん原稿用紙1枚あたり当時の3000円でしたが、あまりに安いと徳岡は感じてしまいました。三島もそう思わせたくて回答したのだと思われます。

 

 当時、三島が文芸誌「新潮」に連載していた『奔馬』(『豊饒の海』第二部)は1回あたり、原稿用紙2030枚程度。当時のお金で6万円~9万円の仕事だったようです。昭和45年の6万円~9万円は、消費者物価指数で換算して現代の33万円~50万円程度。それを徳岡は「三島の一晩の飲み代にも足りない」と言い切っています(徳岡・前掲書)。

 

 たしかに銀座で豪遊するには寂しい数字かもしれませんが、この当時の都市部の平均的勤労者世帯の平均月収が4万円でしたから、世間的にはそこまで低くはなさそうなんですね。

 

 当時の三島には『英霊の聲』(文芸誌「群像」)の連載もありました。これは1回あたり原稿用紙10数枚程度の仕事だったようです。つまり当時の額面で3万円~4万円程度といったところでしょうか。総合すると、三島由紀夫が、その本業といえる小説連載で得ていた月収は推定912万円程度。現代の5060万円くらいだったのです。

 

 普通のサラリーマンの月収なら悪くはないとも思えますが、ノーベル文学賞候補にもなった日本最高峰の純文学作家・三島由紀夫先生の「本業」の月収として見ればどうでしょうか。高いとはいえないし、はっきりいえば少々低いという気さえしますよね。

 

 もちろん、文芸誌の3倍くらいの相場で原稿料が支払われていたという「毎日グラフ」など売れ筋雑誌にも三島は寄稿していたし、単行本もかなり売れていたので、小説連載だけが彼の収入の柱だったわけではありません。

 

 しかし、三島としては渾身の新作として取り組んでいる『奔馬』のギャラが「安い」のに加え、同作が文芸批評家たちから黙殺されていたことにも不満でした。自身の作家活動に対し、三島が望んでいたほどの手応えはぜんぜん得られていなかったし、この先もそれが得られるわけでもないことが、すでに見えてしまっていたのでしょう。

 

 三島が「文豪」から「英雄」にジョブチェンジを試みて失敗した自衛隊突入事件の原因は、「給金と待遇への不満」だったようです。

イラストAC

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堀江宏樹ほりえひろき

作家・歴史エッセイスト。日本文藝家協会正会員。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。 日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。最新刊は『日本史 不適切にもほどがある話』(三笠書房)、近著に『偉人の年収』(イースト・プレス)、『本当は怖い江戸徳川史』(三笠書房)、『こじらせ文学史』(ABCアーク)、原案・監修のマンガに『ラ・マキユーズ ~ヴェルサイユの化粧師~』 (KADOKAWA)など。

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