武士でありながら庶民の娯楽に才能を発揮した朋誠堂喜三二
蔦重をめぐる人物とキーワード⑱
■喜三二の創作を再燃させた「狂歌」
それでも喜三二の文芸への情熱が尽きることはなかった。彼は新たな表現手段として「狂歌(きょうか)」に活路を見出す。狂歌とは、五七五七七の形式で機知や風刺を詠む詩で、当時の知識人の間で高い人気を誇っていた。
この時期、喜三二は「手柄岡持(てがらのおかもち)」という狂名を用いた。「手柄は傍(おか)の者が持つ」という意味が込められており、自身の立場を皮肉を込めて表現している点に、彼らしい個性が見て取れる。
1813(文化10)年、喜三二は79歳でその生涯を閉じた。武士として藩に仕えながら、文筆によって江戸の世相を描き出した彼の生き方は、現代でいう〝二刀流〟と呼ぶにふさわしいものといえる。あるいは〝副業〟で成功した先駆者ともいえそうだ。
遊里文化から庶民の生活、政治風刺に至るまで、幅広い視野と深い洞察をもって作品を遺した朋誠堂喜三二。彼の筆が描いた江戸の風景は、当時の社会や世相を知る上でも重要なもので、江戸時代の研究においても欠かせない貴重な一次史料となっている。