20人ものアイヌの娘が、海に沈められた… おぞましい「生けにえ」を強行した男の「末路」とは
日本史あやしい話
神に生身の人間を供物として捧げるという人身御供。なんともおぞましい行為であるが、古来より連綿と続けられてきた悪習である。それは、中世の北海道でも行われていた。生贄となったのは、アイヌの女性たち。それも、10数人あるいは20数人が一度に葬られたのだとか。いったいどのような経緯によるものなのだろうか?
■おぞましい生贄伝説が伝わる「矢越岬(やごしみさき)」とは?
「因果応報」という言葉がある。果たして、今回紹介する事例がそれに該当するかどうかは明言しきれないが、そう思いたくなるようなものだったので紹介しておきたい。
舞台は蝦夷地、要するに北海道のこと。その南端、松前半島に伝わる、とある伝説について扱いたい。
焦点を合わせるべきは、北海道の松前郡・福島町と上磯郡・知内町の境である。津軽海峡の大海原にポコンと突き出るような矢越岬(やごしみさき)が、この伝説の舞台だ。
一帯は、海抜30mという断崖絶壁の絶景地である。この岬を境として潮流が変わるため、航海の難所としても知られているところであった。本題に入る前に、まずはこの矢越なる地名伝説から解き明かしていくことにしたい。
その昔、二人の若者が村一番の美女を巡って矢を射る競争をしたことがあった。最初に矢を射た若者は見事、岬の穴を通すことができたが、二人目の若者は、矢を通すどころかその前で虚しく落ちた。恋人争いに破れた若者は、そのまま海に入ってしまったというのだ。それが「矢越岬」と呼ばれるようになった由縁だとか。
また、もう一つの言い伝えでは、源義経が登場する。時は1189年、藤原泰衡に追われたものの、窮地を脱して蝦夷へと逃げ延びた、との伝承にまつわる。
津軽半島までたどり着いた義経。ここから対岸の蝦夷地(北海道)へと船出したものの、岬の近くまできたところで暴風に見舞われてしまった。これを妖怪の仕業と見極めた義経が「南無八幡大菩薩」と唱えながら矢をヒュッと放つや、一転、風がおさまって渡りきることができたのだとか。
これもまた、矢越岬の名前の由来だというが、果たしてどちらが正しいのやら? 真相は気になるものの、特段、目くじらをたてるほどのことはなさそうだ。
ただし、ここからのお話(本題)は別。目をしっかり見開いて見ていただきたいと思う。実は、この矢越岬を巡って、二つの「人身御供(ひとみごくう)」、つまり人間を生贄として捧げたという、おぞましいお話が伝えられているからである。
■若い娘たちを岬に沈めた、二人の統治者
最初に登場するのは、蝦夷地の統括者に任ぜられていた安東(藤)氏の配下で、松前守護大館館主となった安東恒季(あんどう・つねすえ)。
この御仁、なかなかな暴君としてその名を馳せていたようである。とある修験者の勧めるまま、若い女性たちをかき集めて、人身御供として矢越岬に沈めたこともあった。それ以来、海中から若い女性の泣き声が聞こえてくるようになったとか。
この恒季が配下に攻められて自害した後、松前守護職となったのが、甲斐国出身と言われることもある相原季胤(あいはら・すえたね)である。これが、第二のお話の主人公だ。
海が荒れて漁ができない日々が続いて、憂いていた時のことである。これを海の神の祟りと信じた季胤。なんと、アイヌの娘10数人(あるいは20数人か)を海の神の怒りを鎮めるために、犠牲として海に沈めたというから、こちらも、前任の恒季に負けず劣らぬ暴君というべきだろう。
■怒ったアイヌの人々が押し寄せ、季胤は自らの娘を入水させることに
ともあれ、これにアイヌの人々が怒ったことはいうまでもない。なんの罪もない娘たちの命を奪われた人々の怒りが爆発。永正10(1513)年7月3日、アイヌが蜂起して、季胤が拠点とする松前大館に大挙押し寄せたからたまらない。抗するすべもなく陥落し、季胤は二人の娘と共に、愛馬に乗って落ち延びようとした。
しかし、アイヌの人々の怒りが収まることはなかった。館を逃れて大沼の湖畔にまで追い詰められ、とうとう二人の娘が入水。それを見届け、愛馬の鞍を外して自由にさせた後、自らも入水して果てたのである。
これこそ、まさに、アイヌの娘たちを死に追いやった報いというべきだろうか。自らの娘まで自害に追いやらざるを得ない、そんな状況を作り上げた己の浅はかさにようやく気がついたとしても、時すでに遅しであった。
その後、毎年7月3日になると、何処ともなく、主の死を悲しんでいるかのような馬の鳴き声が聞こえてくるようになったとか。ここから、この山を駒ケ岳(こまがたけ)と呼ぶようになったのだとも。
■地名については諸説あり
大沼の北東にある鞍掛岩(くらかけいわ)は、季胤が愛馬の鞍を掛けた岩で、その後自刃したと伝えられることもある。ともあれ、大沼で自害した季胤の呪いにより、その側を松前家ゆかりの人々が通ると、木々が倒れるほどの嵐になったのだといわれる。
ただし、当時の大沼は今のような大きな沼ではなかったと指摘する向きがあることも付け加えておこう。1640年に起きた駒ケ岳大噴火の時の岩崩れによって、折戸川がせき止められて大沼ができたというのだ。また、駒ケ岳の名称由来に関しても、再考を促す声があるようだ。
なお、相原氏が滅亡して空き城となった松前大館には、その後、武田信広の嫡男・蠣崎光広(かきざき・みつひろ)が入城している。となれば、アイヌとの戦いで得をしたのは、この蠣崎氏だったというべきか(アイヌ蜂起自体が蠣崎氏の謀略によるものと言われることもある)。
ともあれ、これ以降は蠣崎氏が躍進。松前藩主として蝦夷の統治に当たるようになったという。

津軽海峡 龍飛崎