江戸文化のアイコンだった「花魁」の光と闇
蔦重をめぐる人物とキーワード⑫
■苦悩と背中合わせだった花魁の華やかな生き方
吉原の遊女たちの最高位にあったのが「花魁(おいらん)」だ。彼女たちは高い教養と美貌を備え、ひと際華やかな存在として、江戸文化発信の担い手となった。
花魁の誕生は1617(元和3)年の吉原遊郭の設立に遡る。江戸幕府公認の遊郭として創設された吉原には当初、「太夫」と呼ばれる最高位の称号を持つ遊女がいた。彼女たちは麗しい美貌と高い教養で、大名をはじめとする高い身分の者をもてなしたが、時代が移り変わり、豪遊する客が減ると、より幅広い客層に対応できる遊女が求められるようになった。太夫の重んじていた格式は、次第に時代にそぐわなくなっていったといえる。
太夫に代わって高級遊女の代名詞となったのが花魁だ。その名称は、遊女が客に対して「おいらのところにいらっしゃい」と誘ったことから生まれたとされる。あるいは先輩の遊女を「おいらの姉さん」と呼んだことが転化したとする説もある(『松屋筆記』)。花魁の呼称は江戸時代中期には定着し『異本洞房語園』(1720年頃成立)にもその記述が確認できる。
いずれにせよ、太夫という存在が姿を消すと、花魁は最高級の遊女として、高い教養と洗練された所作で客をもてなし、多くの人々を魅了する存在となった。
花魁の仕事は夜の相手だけでない。宴席で会話や芸事をもって客を楽しませることも含まれる。そのため、和歌や俳句、書道、茶道、華道といった教養に加え、琴、三味線、舞踊、唄などの芸事にも秀でている必要があった。美貌だけでは、花魁になることはできなかったのである。
遊女になる女性のほとんどは、貧しい家庭に生まれ育ち、借金などの理由で幼い頃に遊郭に売られた少女たちだ。彼女たちは禿(かむろ/かぶろ)と呼ばれる見習いとして花魁の身の回りの世話をしながら、教養や芸事を身に着けていく。
その後、新造(しんぞう)と呼ばれる遊女となり、客を取りながら厳しい稽古に耐え抜き、容姿端麗かつ人をもてなす技量の高い者が、花魁に選ばれた。その道のりは過酷であり、大半の女性が花魁になる前に挫折を余儀なくされたという。