秀吉を警戒させた豊臣秀次の「影響力」
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第66回
■有能な補佐を得ながらも内政に励む
秀次は、秀吉から一門衆に相応しい領地を与えられる一方で、失敗がないように実績豊富な与力も付けられていました。与力だった田中吉政や中村一氏、山内一豊、堀尾吉晴たちは、皮肉にも後に関ヶ原の戦いでは東軍につき、それぞれが国持大名またはそれに匹敵する領地を得ています。
彼らに支えられながら、近江八幡では善政を敷いたと言われています。近江八幡城は秀吉の指示によるものと言われていますが、城と城下町を無事に建設させています。秀次は、城下町の建設に必要な職人を集めるために、諸役の免除などを行っています。また、水争いによる領民間の揉め事を公平に裁定し、当事者たちの納得を得たという逸話が残されています。
関白を継承すると、秀次主導の下で、文禄の役に備えて人掃令と呼ばれる全国の戸口調査を行っています。これにより、遠征に動員できる兵力の把握に加え、当時まだ地位のあやふやだった農民たちの身分を確定していきます。
また、関白として前田利家(まえだとしいえ)や佐竹義宣(さたけよしのぶ)たち諸侯の官位授与にも関わっています。こうして、秀次は内政面で実績を重ねていく事で、政権内での「影響力」を高めていきました。
■武家だけでなく公家や文化人にも及ぶ秀次の「影響力」
秀次は、その血の繋がりの濃さから、秀吉の一門衆の中でも上位の存在です。また、秀吉の正妻北政所(きたのまんどころ)の縁戚である浅野幸長(あさのよしなが)とは、池田家を通じて相婿の関係にあり、有力者たちと強力な関係も築いていました。そのため、諸侯は秀次との関係性強化に努めています。伊達政宗(だてまさむね)も、旧臣の一人が秀次の家老となっており、かなり懇意にしていました。最上義光(もがみよしあき)は、娘を秀次に側室として送り出しています。
秀次は豊富な資金力を使い、諸侯に融資を通じて諸侯への影響力を高めていました。細川忠興(ほそかわただおき)は黄金200枚を借金しており、毛利輝元(もうりてるもと)も文禄の役などの出征費用を借りていたと言われています。
さらに、文化への造詣も深く、公家や文化人との繋がりも強く持っていました。右大臣の菊亭晴季(きくていはるすえ)の娘を側室として縁戚関係を築きつつ、茶の湯や連歌などを通じて公家衆との関係を深めています。当時の文化人筆頭とも言える利休を通じて、神屋宗湛(かみやそうたん)・津田宗及(つだそうきゅう)など有力商人とも繋がっていたようです。
そして、天龍寺などの五山の僧たちとも、学問奨励の支援を通じて、繋がりを生んでいます。
政権運営のために秀次が培った「影響力」は、逆に秀吉および秀頼の存在を脅かしかねないと危険視されたのか、理不尽にも謀反の疑いを掛けられ、秀次は自死します。
■権力者が警戒する「影響力」
秀次の「影響力」の排除は凄まじく、秀次切腹後に一族郎党はほぼ全て処刑、前野長康(まえのながやす)などの家老衆は賜死、さらには聚楽第(じゅらくてい/じゅらくだい)や近江八幡城も徹底的に破却されています。
秀次の首塚には「秀次悪逆」という石碑が立てられ、後世にまで「影響力」の排除を図られました。
現代でも、組織において内外に「影響力」を持つ存在は、常に警戒の対象となり、最終的には様々な手法により排除されるケースが見受けられます。
もし、秀次が秀頼誕生とともに早々に関白の返上を申し入れるなど、自ら積極的に恭順を示す姿勢を見せていれば、違った結果になっていたかもしれません。
秀次の眷属は、ほぼすべて処刑されたと言われていますが、生き残った秀次の娘が、後に真田信繁(さなだのぶしげ)の室となったという逸話があり、その五女顕性院(けんしょういん)が出羽亀田藩2万石の岩城宣隆の室となっています。また、顕性院の弟が秋田真田家の祖となったとも言われています。
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