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世界一周の夢と有力な兵器 大陸の鉄道網には2つの顔があった【鉄道と戦争の歴史】

鉄道と戦争の歴史─産業革命の産物は最新兵器となった─【第11回】

日露戦争での旅順要塞攻略の経験を踏まえ、攻城のため大日本帝国陸軍が明治45年(1912)に制式化した、四五式二十四糎榴弾砲。この砲を駆使して、ドイツ帝国の東アジアでの拠点であった青島要塞を攻撃する日本軍。

 大戦末期になると、日本にシベリアへの出兵要請が持ち上がった。1917年2月に起こったロシア革命により成立した臨時政府は、引き続き連合軍としてドイツ軍・オーストリア軍との戦いを継続した。その際、オーストリアに併合されていたチェコ・スロバキアの軍隊は、ロシアとの戦いに駆り出されていたが、革命を機にロシア側に寝返り、ドイツ・オーストリア軍と戦っていた。

 

 ところが1918年1月にソビエト政府が成立すると、3月にドイツと講和条約を結んでしまう。そのためチェコ・スロバキア軍は行き場を失いソビエト政府と対立した。これに目をつけたのが、共産革命をよしとしないイギリスであった。イギリスはフィンランドに隣接するムルマンスクや、極東のウラジオストクに軍を派遣し、共産革命を干渉した。

 

 イギリスはチェコ・スロバキア軍をシベリア鉄道経由でウラジオストクに移動させ、海路でヨーロッパに移動させることを考えた。その後に英仏連合軍に加え、ドイツ・オーストリア軍との戦いに投じようと考えた。

 

 そこでチェコ・スロバキア軍保護を名目に、アメリカやフランス、そして日本などにウラジオストクへ軍を派遣することを要請したのである。イギリスの本音は、東から共産革命軍を圧迫することで革命を阻止ことであった。

革命軍によって殺害されたチェコ・スロバキア軍の将兵。シベリア出兵の表向きの目的は、こうしたチェコ軍捕囚の救出であったが、真の目的はロシア革命政府の打倒だった。

 日本は最初、派兵を断っていたが、アメリカからの要請もあり1個師団を派遣することを決定。大正7年(1918)8月、ウラジオストクに上陸した日本軍はすぐ、英仏軍の求めに応じて両軍の戦線まで進出する。それを察知した革命軍は、戦闘をやめて列車でシベリア奥地への退却を始めた。これをきっかけに、列車を利用した両軍の戦いが始まった。

 

 鉄道で逃げる革命軍を、日本軍の騎兵連隊が追撃。敵から列車を奪うと、それに乗ってハバロフスクまで進軍する。ハバロフスクを守っていた革命軍は、大砲や弾薬、多数の列車、機関車を放置して退却した。革命軍には装甲列車もあり、日本軍はこれを分捕り戦闘に利用している。日本軍はウラジオストク上陸から45日後には、バイカル湖畔まで進出し革命軍を掃討。当面の目的を達成した。

 

 第1次世界大戦では、ヨーロッパが4年以上も戦火に包まれた。さらに大戦末期に起こったロシア革命、それに続く混乱により、アジアとヨーロッパを結んだ「欧亜国際連絡列車」は、大正13年(1924)に運行が一旦中止された。再開されるのは昭和2年(1927)であった。この時代の鉄道は、平和的な利用と戦争での利用が入り混じっていたのである。

シベリア派遣軍の各国将官たち。地理的に近く、大戦に陸軍主力を派遣していない日本の兵力が一番大きかった。参加したのは日本のほかにロシア反革命軍(白軍)、アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、カナダ、中華民国など。

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野田 伊豆守のだ いずのかみ

1960年生まれ、東京都出身。日本大学藝術学部卒業後、出版社勤務を経てフリーライター・フリー編集者に。歴史、旅行、鉄道、アウトドアなどの分野を中心に雑誌、書籍で活躍。主な著書に、『語り継ぎたい戦争の真実 太平洋戦争のすべて』(サンエイ新書)、『旧街道を歩く』(交通新聞社)、『各駅停車の旅』(交通タイムス社)など。最新刊は『蒸気機関車大図鑑』(小学館)。

 

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