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千姫事件を起こした坂崎直盛の「義憤」

武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第63回

■仲間を救うために行動する直盛の「義憤」

 

 宇喜多家は秀家が秀吉の猶子(ゆうし)となっていたため、秀頼(ひでより)の藩屏となる事を期待されて五大老に選ばれるほどの地位を得ています。

 

 一方で、家中では秀家が財政改革と権力集中のために、秀吉から信任を得ていた長船綱直(おさふねつななお)や豪姫の付き人であった中村次郎兵衛を重用したことで、戸川達安(とがわみちやす)、岡越前守ら旧来からの重臣層と対立が生じます。

 

 宇喜多家の一門衆でもある直盛ですが、秀家に命を狙われていた戸川たちを大坂の自邸に匿(かくま)って、秀家との対立を選んでいます。最終的には家康の裁定により、直盛や戸川たちは宇喜多家を去り、徳川家の預かりとなり、その後、大名や旗本として取り立てられます。

 

 直盛はキリスト教の洗礼を受けると熱心に布教活動をし、関ヶ原の戦いで宇喜多家を指揮することになる明石全登を改宗させています。禁教令が出た際には全登と二人で宣教師を説得して避難させています。

 

 また、関ヶ原の戦いで改易された小野寺義道を預かると、これを自領の津和野で手厚く庇護しています。義道はその事に感謝し、謀反人として裁かれた後も、津和野に直盛の墓をひっそりと建てています。

 

 このように、直盛の「義憤」によって助けられた者も多くいました。

 

■家康との関係性と千姫事件 

 

 直盛は関ヶ原の戦いで功績があり、石見国津和野3万石を得て大名となっています。この時期に、家康が宇喜多を嫌ったため、坂崎に名を変えたと言われています。

 

 また、坂崎家中での騒動の際には、家康に直接裁定を仰ごうとしていますので、関係性は非常に近いものがあったのかもしれません。1615年の大阪の陣でも功績を挙げて、1万石の加増を受けています。

 

 しかし、豊臣秀頼の正室で大坂城から救出された千姫を巡って事件が起こります。

 

 一般的には、千姫を直盛の妻とするという家康の約束を、家康の死後に秀忠および幕府に反故にされたため、千姫の強奪を企て失敗し、最終的に自害させられたと言われています。

 

 しかし、昨今では別の見解も出てきています。直盛が生前の家康の依頼によって千姫の再嫁先を周旋していたところ、突如として本多忠刻との縁談を幕府が取り決めた事への反発だったとするものです。

 

 これは、生前の家康との約束を反故にした、秀忠や幕府に対する「義憤」的な反応とも考えられます。

 

 直盛は家臣とともに自邸に立て籠り、幕府への抗議の意を示します。最終的には、友人であった柳生宗矩(やぎゅうむねのり)が説得と処理にあたり、宗矩の言葉に感じ入り自害したとされています。

 

 但し、幕府は当初の約束を反故にして坂崎家を取り潰します。これは秀忠の将軍権力を内外に示す意味もあったかもしれません。この処置に思う事があった宗矩は、坂崎家の者を家臣として引き取り、さらに坂崎家の家紋を柳生家の副紋として使うようになったという説があります。

 

 直盛は、その最期においてもどこか「義憤」的であったように思います。

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森岡 健司もりおか けんじ

1972年、大阪府生まれ。中小企業の販路開拓の支援などの仕事を経て、中小企業診断士の資格を取得。現代のビジネスフレームワークを使って、戦国武将を分析する「戦国SWOT®」ブログを2019年からスタート。著書に『SWOT分析による戦国武将の成功と失敗』(ビジネス教育出版社)。

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