家康が欲した浅野長政の貴重な「立場」
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第62回
■秀吉の親類であり古参という「立場」
秀吉が一代での叩き上げのため、譜代家臣を抱えていないこともあり、相婿と言える長政は非常に貴重な存在でした。
初期の豊臣政権を支えていた弟秀長(ひでなが)が1591年に亡くなると、側近でもあった千利休(せんのりきゅう)も切腹となり、大きく体制が変わっていきました。
それまでに宿老級の杉原家次(すぎはらいえつぐ)や蜂須賀正勝(はちすかまさかつ)も死去しており、古参の側近と入れ替わるように、石田三成(いしだみつなり)や増田長盛(ましたながもり)などが重要な役割を担うようになっていきます。
秀吉の権力が強まるにつれ、古参の親類筋という「立場」は政権内での長政の重みを増していきます。
小田原征伐では、三成が家康を警戒する中、長政は逆に好意を示すようにして、秀吉を家康の居城である駿府城へ導いたという逸話が残されています。また、文禄の役では、秀吉が渡海して直接現地で指揮を取ろうとするのを、諫言(かんげん)して止めたと言われています。
このように政権内では、家康や前田利家(まえだとしいえ)に次ぐ存在感がありましたが、1595年の豊臣秀次事件に巻き込まれてしまいます。秀次と相婿であった幸長は、事件に連座し能登に配流され、長政も秀吉の怒りを買い一時的に信用が低下したとされています。
この時に、幸長の復帰に関して家康たちの取り成しを受けています。
その後、秀吉の晩年には五奉行の筆頭格として政権中枢に復帰しています。長政は秀吉死後の政権を運営する上で、非常に重要な地位を与えられています。
■家康に利用される貴重な「立場」
秀吉は、秀頼に藩屏となる血族が少ないことに不安を感じたのか、広義の意味で親類衆と見なしている家康や利家、長政たちを豊臣政権の上位に据えています。長政には三成たち奉行衆を統括しつつ、家康や利家ら大老たちとの協調を維持することも期待されていたようです。
しかし、1599年に長政は前田利長(としなが)と共謀して家康暗殺を計画したとして、その重要な地位を失う事になります。
この計画の露見は、増田長盛の密告によるものと言われています。この一件により、秀吉が構想していた五奉行と五大老による政治体制は瓦解し、家康への権力集中が一気に進みます。
武蔵国府中に蟄居(ちっきょ)することになった長政は、この事件の結果、家督を継いだ幸長の親徳川路線に従わざるを得なくなります。
関ヶ原の戦いでは浅野家は東軍に属し、戦後に幸長の紀伊国和歌山37万石とは別に、家康の好意により、常陸国真壁5万石が長政の隠居領として与えられています。そして、1602年に三男長重(ながしげ)が家康の養女を娶(めと)ったことで、浅野家は徳川家の縁戚という「立場」に変わっていきます。さらに1615年には、二代藩主長晟(ながあきら)は家康三女振姫を娶っています。
豊臣家の縁戚関係にあり、古参家臣という「立場」の浅野家を従える事は、幕府にも利点が多かったように思います。
■自分の「立場」に翻弄される
長政は秀吉の古参家臣であり、北政所を通じた親類でもあるため、豊臣政権において重要な存在となっていきました。秀吉の死の前後において、長政の「立場」は変遷しつつも、逆に家康の発言力強化に利用されていきました。
現代でも組織内での「立場」が重要性を増したことで、周囲の政治的な思惑に巻き込まれて、本来やりたかった事が叶わない事が多々あります。
ちなみに、長政や幸長の死後、豊臣家と距離を置いていたように見える浅野家ですが、三代藩主綱晟(つなあきら)の正室と継室に豊臣完子(とよとみさだこ)の孫を迎え、豊臣家との血縁を結んでいます。
また、度々、徳川宗家や御三家から正室を迎えており、浅野家を通じて豊臣家と徳川家が繋がることになります。
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