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豊臣秀吉は「ミイラ」になっていた!? 天下人の「悲惨すぎる末路」 お墓も廃墟になり…

日本史 不適切にもほどがある話

 

秀吉の亡骸が入った甕を開けてみたら……

 

「新八幡」よりも「豊国大明神」の神号の威力は薄かったのか、秀吉の死後、豊臣家と徳川家の抗争は激化し、二度の「大坂の陣」の末、戦国大名としての豊臣家は滅亡してしまった。

 

 徳川家康は豊国大明神の神号を廃止するだけでなく、豊国社(豊国神社)の建物も破却しようとした。しかし、秀吉未亡人の高台院(おね)から「崩れ次第になし給(たま)はれ」(『東照宮御実紀附録』)──人為的に壊すのではなく、せめて「荒れるがままに放置してください」と頼み込まれて、そのとおりにした。

 

 やがて秀吉の遺体が入った甕(かめ)を埋めた墳墓の名前も、徳川家を憚(はばか)って「馬塚」と呼ばれるようになってしまった。早くも豊国社は17世紀後半には廃屋と化し、盛者必衰の理(ことわり)を感じずにはいられない廃墟系名所になっていたようだ(『京童』)。

 

 状況が変わったのは、徳川幕府が倒れた明治の世だった。慶応4年=明治元(1868)年、明治天皇の大坂行幸が契機となって、豊国大明神の神号が復活し、明治131880)年には京都に豊国神社が再興されたのだ。

 

 そして明治231890)年625日には、黒田長成侯爵など、豊臣秀吉子飼いの大名の子孫たちが中心となり、秀吉の墓所にふさわしい墓碑銘を建てるべく「豊国会」が結成された。

 

 しかしその工事中、秀吉の遺体を収めた甕が出土してしまったのだ。その蓋を開けると、西向きに鎮座したミイラ化した秀吉の遺体があったという。

 

 意図しなかったにせよ、秀吉の墓荒らしをした「豊国会」の面々は、甕から秀吉の遺体を取り出そうと試みるという、さらに取り返しのつかぬミスまで犯してしまった。下手に動かしたせいで、それまではかろうじて人の形を保っていたものが、バラバラと崩れ落ちたのである。

 

 秀吉の遺体の破片のそれぞれが丁寧に絹の布に巻かれて桐の箱に収められ、銅製と石製の箱で二重にカバーされてから、地中に戻っていった。

 

 もし、科学が進んだその後のしかるべき時期に土中から発見されていたのなら、秀吉のミイラからどれほど有益な情報を知りえたかと思うと口惜しいものがある。

 

 

 

 

 

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堀江宏樹ほりえひろき

作家・歴史エッセイスト。日本文藝家協会正会員。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。 日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。最新刊は『日本史 不適切にもほどがある話』(三笠書房)、近著に『偉人の年収』(イースト・プレス)、『本当は怖い江戸徳川史』(三笠書房)、『こじらせ文学史』(ABCアーク)、原案・監修のマンガに『ラ・マキユーズ ~ヴェルサイユの化粧師~』 (KADOKAWA)など。

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