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『逃げ上手の若君』鷹が結ぶ弧次郎の実家・祢津氏と諏訪氏の関係

『逃げ上手の若君』外伝:北条時行をめぐる人々とその時代


TVアニメ『逃げ上手の若君』が最終回を迎えた。国司・清原信濃守(CV:勝杏里)の軍と戦いながら保科弥三郎(CV:稲田徹)らを撤退させた時行(CV:結川あさき)たち逃若党。とくに吹雪(CV:戸谷菊之介)と弧次郎(CV:日野まり)の活躍が目覚ましく、これから鎌倉奪還を目指していく逃若党の絆が深まっていく様子も見られた。本連載の最後として、時行の“右腕”となっていくであろう狐次郎にまつわるお話をお届けする。


 

■権力者が好んだ鷹狩りと諏訪氏の関係

 

 逃若党の郎党・弧次郎と亜也子の実家である祢津氏、望月氏、そして海野氏は滋野氏の中でも中核をなす「滋野三家」と呼ばれる名門だ。この中でも小県郡を本拠地とする祢津氏は後々の時代まで長く命脈を保ち、放鷹術、つまり鷹狩りの技術を伝えてきた家として知られている。

 

 鎌倉時代のはじめごろの元久3年(1206)、信濃国の御家人である桜井五郎が3代将軍源実朝の前で鷹狩りの故実について語ったことが『吾妻鏡』に記されている。桜井五郎はこのとき鷹ばかりでなくモズを使っても同じように狩りができると豪語して、興味を示した若い将軍と執権・北条義時の前で見事モズを操ってみせた。桜井氏は信濃国桜井を苗字の地とする滋野氏の一流である。

 

 鎌倉時代の中期に成立した『古今著聞集』の中にはそれまで一度も獲物をとったことがないという公家の一条院秘蔵の鷹を預かって、狩りができる有能な鷹に仕上げた「ひぢの検校豊平」なる人物が登場する。豊平はその褒美として信濃国のひぢの地を賜ったというが、この「ひぢ」の地は中世、諏訪明神の領地であり、ひじの検校豊平もまた諏訪の放鷹と深いかかわりを持つ存在だった。

 

 鎌倉幕府は7回にわたって鷹狩を禁止する命令を公布している。禁止令が出るということはつまり、武士たちの間でそれだけさかんに鷹狩りが行われていたことの証ともいえるが、同時に鷹狩りの伝統や技術を幕府が独占しようとする動きであったとも考えられる。

 

 鷹狩りは間違いなく殺生である。それは幕府が鷹狩りを禁止するにあたっては都合の良い口実でもあった。しかし、それならば幕府もまた殺生のタブーを犯していたことにはならないか。もちろん武士は戦い、すなわち殺生をその職能とする存在だ。だがそこに一切の葛藤はなかったのか。

 

 その中で方便とされたのが神事としての鷹狩りだった。北条得宗家と諏訪明神に仕える諏訪氏との繋がりを考えたとき、その縁故が鎌倉幕府における諏訪の放鷹術の独占、そして諏訪氏側からは自身の地位向上のために有利に働いたことは想像に難くない。

 

 鎌倉幕府が滅んだのち、諏訪頼重らが北条一族の遺児・時行を庇護した一方で、一族の諏訪円忠は室町幕府に奉行人として出仕した。諏訪一族の存続を図る円忠は『諏訪大明神画詞』を幕府に献上し、その中で放鷹術にまつわる歴史と祢津氏との関わりに触れて祢津氏から放鷹術を継承した家としての正当性を室町幕府にアピールしたのである。

 

 後に江戸幕府を開いた徳川家康も鷹狩りを好んだことで知られるが、彼に仕えて鷹書を献上した祢津松鷂軒は祢津氏の末裔である。祢津流の放鷹術は鎌倉時代から連綿と将軍家の放鷹術としてその命脈を保っていったのだ。

江戸時代、天明6年(1786)頃の鷹狩の様子を描いたもの。
『将軍家駒場鷹狩図』/東京国立博物館蔵 出典:ColBase

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遠藤明子えんどうあきこ

鎌倉・室町・戦国を中心に活動する歴史ライター。『歴史研究』(戎光祥出版)『歴史REAL 南北朝 』(洋泉社)等への寄稿多数。著書に『乙女の「平家物語」』(新人物往来社)がある(井上渉子名義)。

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