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戦前~戦時下に存在した盲導犬たちの悲しい最期 戦後日本でようやく実を結んだ盲導犬の育成

日本人と愛犬の歴史 #27


今や誰もが知る存在となった「盲導犬」だが、みなさんはその始まりをご存知だろうか。じつは戦前~戦時中も日本には視覚を失った人を誘導するために訓練された犬たちがいた。しかし、過酷な時代は犬に対してどんどん厳しくなっていった……。戦後にようやく広がっていく盲導犬育成の土壌がどのようにして作り上げられていったのか、知られざる物語をご紹介する。


 

■盲導犬の長い歴史と戦後日本で広がった背景

 

 日本初の国産盲導犬は、昭和32年(1957年)8月にデビューした『チャンピイ』である。訓練士はアイメイト協会の創立者、塩谷賢一だ。しかし、敗戦後の日本に突然、盲導犬が誕生したわけではない。

 

 もともとシェパードの愛育者だった塩谷は、戦争中だった10代の時に盲導犬の存在を知り関心を持った。そして、訓練をしていた陸軍第一病院(今の国立国際医療研究センター病院)に頼み込み、見学させてもらっている。

 

 盲導犬発祥の地はドイツである。シェパードの母国ドイツでは、新しく生まれたこの犬種を、衛生犬として第一次大戦に大量投入していた。これが軍用犬の始まりである。

 

 それが成功し、次に失明者を誘導する犬を育成して、失明軍人に一頭ずつ与えることにした。その様子を昭和4年(1929年)、ベルリンを訪れた陸軍大佐の櫻井忠温と日本電報通信社(電通の前身)の中根栄が目撃する。ちなみに、「盲導犬」という言葉は中根の発案である。

 

 アメリカも、誘導犬の働きに刮目して育成を始めていた。そこで日本でも、主に日本シェパード犬協会が研究に着手したのである。

 

 昭和13年(1938年)アメリカから、福祉団体の支援で世界を旅行しているハーバード大学の学生が来日した。その学生ジョン・ホルプス・ゴードンには、盲導犬のオルティが付き添っていた。

 

 ゴードンは各地で講演や実演を行ない、陸軍第一病院も訪れた。院長の三木良英軍医中将は、この講演に深い感銘を受け、盲導犬を訓練し支給しようと考えた。

 

 日本シェパード犬協会は、犬の選出と訓練をポツダム盲導犬学校に依頼する。その結果、日中戦争2年目の翌昭和14年(1939年)に、ドイツから4頭のシェパードがやってきた。日本名ボド、リタ、アスタ、ルティの4頭である。

 

 日本シェパード犬協会理事たちによる手探りの訓練を経て、まずボドとリタが陸軍第一病院に献納された。そして、視覚を失った増田准尉と平田軍曹に貸与されたのである。

 

 2人は歩行訓練に励み、平田はリタを連れて富山へ帰郷した。その後、リタは陸軍曹長安倍米吉に貸与され、大分に移って農作業に付き添った。だが敗戦直後、フィラリアで命を落とす。

 

 ボドの方は退院した増田准尉と暮らしたあと、次に山本准尉に貸与された。そして山本の故郷である大阪に移った。山本は叔父宅で暮らしながらボドと共に通勤し、結婚したあとは早川電器の工場で働くようになった。

 

 昭和20年(1945年)313日から翌日にかけて、大阪はB29の猛空襲を受ける。ボドは勇敢だった。焼夷弾が降り注ぐ中、恐れることなく山本を安全地帯に導いた。

 

 叔父宅が全焼したためボドは妻の実家で暮らし、山本は工場に寝泊まりして働いた。しかしボドは敗戦の少し前、栄養失調で命を落とす。もはや人間の食糧もなくなっていた時期だ。猛火の中を命がけで誘導してくれたボドの悲しい最期に、山本は涙を止めることができなかった。

 

 一方、森野上等兵に貸与されたアスタは、一緒に北九州へ行ったのちに行方不明になっている。おそらく盗難だろう。高価な犬はしばしば盗難被害に遭った。もう一頭、ルティは、やはり失明軍人の岩倉金夫と関西で暮らしたことまでわかっている。

 

 こうした輸入犬の活躍に力を得て、陸軍第一病院は国産盲導犬の育成を始めた。そのうちの一頭が日本生まれのフロードである。昭和16年(1941年)、日米開戦の年に、若松一等兵に貸与された。

 

 1214日、真珠湾攻撃の6日後、若松はフロードを連れて名古屋に帰郷し、市内を歩く練習をしたのち、機械部品業を起業した。営業活動には常にフロードが帯同していたという。フロードは何とか苛烈な時代を生き抜き、敗戦の翌年に死去している。

 

 また陸軍第一病院とは別に、個人が独自に訓練した民間盲導犬も少数存在した。こうして細々とではあるが、熱心な人々によって盲導犬普及の土台が形成されていったのである。

 

 しかし戦局の悪化により、盲導犬育成事業に逆風が吹く。そもそも犬自体の存在が許されなくなってきた。陸軍も日本シェパード犬協会も事業から撤退する。犬に関わる業界や団体は全て、昭和19年(1944年)までに崩壊した。

 

 それでも陸軍第一病院内で、白井訓練士がたった1人で奮闘していた。戦後盲導犬育成のパイオニアになる塩谷賢一が、陸軍第一病院で訓練の様子を見学したのは、この少し前だと思われる。

 

 犬好きの塩谷は、玉音放送を聞くとすぐに帝国軍用犬協会を訪ね、全財産をはたいて優秀なシェパードの子犬を手に入れた。そしてアスターと命名して訓練し、昭和23年(1948年)、日本シェパード犬協会主催の警察犬訓練試験協議会に出場、アマチュアながらチャンピオンに輝いたのである。

 

 しかし、これからという時に勤務先が倒産。なかなか仕事が見つからない中、審査委員長を務めていた相馬安雄(新宿中村屋二代目社長)から「日本一の訓練士になれるかもしれない」と激励され、自宅に塩谷愛犬学校の看板を掲げた。

 

 チャンピオン犬を生み出した塩谷の学校は順調だった。しかし当時、犬を訓練に出すのは富裕層だけだった。塩谷はもっと広く、人の役に立つことをしたいと思い悩むようになる。

 

 そんな時、日本シェパード犬協会の会報に、盲導犬についての記事を見つけたのである。塩谷は、かつて盲導犬の訓練を見学したことを思い出し、みずから育成することを決意した。そして努力と工夫で訓練法を蓄積していくが、肝心の利用者がなかなか現れない。

 

 だが、ついに相馬を通じて依頼が来た。元外交官の河相達夫が、戦争中の厳しい生活で失明した息子にと、アメリカ大使館付き武官ノーベル大佐から贈られたシェパード、チャンピイの訓練を依頼してきたのだ。これが国産初の盲導犬誕生につながった。戦前からの努力が地下水脈となって、戦後に花開いたのである。

 

 初の利用者となった河相洌(きよし)は、本年1月に死去するまで、盲導犬の普及に尽力した。やがて塩谷が始めた訓練学校を母体として、日本盲導犬協会が設立される。

 

 その後、考え方の違いが表面化し、塩谷は昭和46年(1971年)に東京盲導犬協会を設立。平成が始まった1989年に、日本アイメイト協会と改名して今日に至っている。今では盲導犬を知らない日本人はいない。なお見た目の印象もあって、犬種はレトリーバー系に移行している。

現在では盲導犬といえばレトリーバー系だが、元々は軍用犬としても使役していたシェパードが採用されていた。

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川西玲子かわにしれいこ

1954年、東京生まれ。(公社)日本犬保存会会員。専門学校や大学で講師を務めた後、現在は東アジア近代史をメインに執筆活動を行う。主な著書に『歴史を知ればもっとおもしろい韓国映画』、『映画が語る昭和史』(ともにランダムハウス)、『戦時下の日本犬』(蒼天出版)、『戦前外地の高校野球 台湾・朝鮮・満州に花開いた球児たちの夢』(彩流社)など。Amazonに著者ページあり。

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