内裏混乱のさなかに生を受けた脩子内親王
紫式部と藤原道長をめぐる人々㉜
さらに、父の一条天皇が1011(寛弘8)年に崩御。これを受け、脩子内親王は藤原隆家のもとに身を寄せている。宮中に留まり、道長や彰子の庇護下にあるのをよしとしない本人の決断だったようだ。
藤原実資(さねすけ)の日記『小右記』によれば、道長は自身の目の届かないところへ脩子内親王が移ることを快く思わなかったらしい。しかし、相次いで身内を亡くし、父の一条天皇すら失ってしまっては、宮中に留まる意味を見いだせなかったのも不思議ではない。
1024(治安4)年に生涯独身を貫いたまま出家。一方で、藤原頼宗(よりむね)の次女である延子(えんし/のぶこ)の養育にあたった。延子の母は藤原伊周の娘であるため、脩子内親王にとって延子は数少ない身内というべき存在であった。
のちに延子は後朱雀(ごすざく)天皇に入内しており、この時、脩子内親王は養母として付き添ったといわれている。晩年は、生涯叶うことのなかった家族の時間を味わっていたのかもしれない。
1049(永承4)年2月に死去した。享年54。釈迦入滅と同日だったことから、きっと成仏されたことだろう、と人々はささやきあったという。