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家康支持の流れを作った山内一豊の「貪欲」さ

武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第54回

 ■豊臣家の古参譜代であった山内一豊

高知城(高知市丸ノ内一丁目)に立つ山内一豊の銅像。像の高さが4.32m、台座が5.08mという、大型の銅像として平成8年(1996)に除幕された。

 山内一豊(やまうちかずとよ)は、豊臣家の古参家臣として秀吉の天下統一を支え、妻である千代の助力のおかげで名を挙げたという逸話などがあるものの、一般的に戦国武将としてのイメージはあまり良くないかもしれません。

 

 しかし、一豊は豊臣秀吉の古参家臣として数々の戦に参加しており、七本槍のように喧伝されていませんが、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いの前哨戦では一番槍の武功を挙げています。秀吉からも厚く信頼され、後継者候補でもある秀次(ひでつぐ)の宿老(しゅくろう)として配され、また徳川家康の抑えとして東海道の枢要な場所を任されています。

 

 それにも関わらず武将としてのイメージがよくないのは、その「貪欲」な行動にあると思われます。

 

■「貪欲」とは?

 

「貪欲」とは辞書等によると「物欲・金銭欲・食欲が強く、手に入れたものではなかなか満足せず、さらに欲しがること。欲深いこと。また、そのさま」とあります。また「新たな知識や技能をとても熱心にとり入れようとするさま」という意味もあります。

 

 多くの戦国武将は御家存続のため、立身出世のために命懸けで行動するのが当たり前でした。一豊もためらうことなく、地位向上のために「貪欲」に活動をしていきます。

 

■山内家の事績

 

 山内家は尾張を出自としており、岩倉織田家の重臣の家柄とされております。藤原氏を本性としていますが、不明な点が多いと言われています。

 

 父盛豊は岩倉織田家の家老として仕えていましたが、信長に居城岩倉城を落とされた際に、山内家は没落し一豊は放浪の身となったようです。

 

 奉公先を転々とする中、信長の傘下に戻ると、一豊は秀吉の与力として配されます。その後、姉川の戦いでは重傷を負いながらも武功を挙げて400石を得ています。正式な年代は不明ですが、この頃に内助の功の代表とされている正室千代を迎えたようです。

 

 1577年ごろには2000石となり、秀吉の中国攻略における各合戦に参加しています。本能寺の変後には、賤ヶ岳の戦いや小牧長久手の戦いにも参加し武功をあげています。また、秀吉からこれまでの活躍や人柄を評価され、豊臣家の後継者候補でもある秀次を支える宿老として、田中吉政(たなかよしまさ)や堀尾義春(ほりおよしはる)とともに配されています。

 

 1585年には、秀次の近江八幡への転封に付き従う形で近江国長浜2万石を得て、大名となっています。さらに小田原征伐での活躍や秀次の加増転封を経て、遠江国掛川5万1000石を拝領し、東海道を抑える大名となります。

次のページ■秀次事件における前野長康との対応の違い

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森岡 健司もりおか けんじ

1972年、大阪府生まれ。中小企業の販路開拓の支援などの仕事を経て、中小企業診断士の資格を取得。現代のビジネスフレームワークを使って、戦国武将を分析する「戦国SWOT®」ブログを2019年からスタート。著書に『SWOT分析による戦国武将の成功と失敗』(ビジネス教育出版社)。

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