鉄道に目をつけたプロイセン王国─普仏戦争は日本の鉄道建設に多大な影響を与えた─【鉄道と戦争の歴史】
鉄道と戦争の歴史─産業革命の産物は最新兵器となった─【第1回】
明治11年(1878)、山県有朋(やまがたありとも)が参謀本部長に就任すると、普仏戦争の結果を受け鉄道を軍事利用することを強く意識し始めた。さらに明治18年(1885)、ドイツ陸軍を模範とするために、モルトケ参謀総長が推薦してくれたメッケル少佐を教官として招聘。明治20年(1887)には「鉄道論」が天皇に上奏された。
これは「鉄道は戦時輸送に配慮してルートを決める」ということと、さらに「単線の鉄道は軍事輸送に不適切」という2点が骨子となったものであった。補足で「軍用列車は広軌で機関車は馬力が強く、客車は兵士の個人装備も積める構造に」と記されていた。

明治維新の功労者でもある山県有朋は、ドイツに倣って参謀本部を創設し、初代参謀本部長に就任している。第1次伊藤博文内閣では内務大臣を務めている。東西交通の要となる路線建設では、初め中山道案を推した。
写真:国会図書館蔵
当時の日本には、軍隊を海外に派遣する思想はなかった。日本に攻め寄せてきた敵軍を、東京湾の入口など主要な場所に建設した要塞で迎撃する、という考えだったのだ。そのため外国の軍隊がどこかに侵攻して来た際、鉄道網を使い防衛軍を素早く展開することを一番に考えていたのである。
そのためにも大動脈となる関東と関西を結ぶ鉄道整備は、焦眉(しょうび)の急とされていた。加えて参謀本部では、大量輸送に向いた広軌を希望した。また陸軍は、敵艦の艦砲射撃や破壊工作に晒(さら)される恐れがある海沿いのルートにも反対であったため、内陸部を通る旧中山道沿のルートを要望している。
しかし山岳地帯を通すには、莫大な予算と時間を要してしまうため、鉄道建設の責任者であった井上勝(いのうえまさる)は、総理大臣の伊藤博文に中山道から東海道へのルート変更を訴えた。参謀本部長から内務大臣となっていた、山県の説得も願い出ている。財政難は政府全体が抱える問題なので、内務大臣の山県にも責はある。鉄道建設の緊急性を考慮し、山県も妥協せざるを得なかった。
こうして中山道案は東海道案に変更され、明治22年(1889)7月1日に新橋〜神戸間が全通した。その頃、日本は朝鮮半島の主権を巡り、清国との関係が悪化し始めていた。奇しくも開通したばかりの鉄道が、すぐさま戦争の帰趨(きすう)を左右することになるとは、思ってもいなかったのではないだろうか。

井上勝の父は萩藩士で、若い頃には伊藤博文らとイギリスへ密航。ロンドン大学で鉱山・土木工学を習得している。明治政府ではおもに鉄道建設に関する仕事を担っていたため、「日本の鉄道の父」とも呼ばれている。
写真:国会図書館蔵
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