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「こんなものは素直に受けてくれないと…」文春の社長が激怒した、芥川賞の「辞退」騒動とは【芥川賞の炎上史】 

炎上とスキャンダルの歴史


7月17日に選考会が行われた第171回の芥川賞では、朝比奈秋さん『サンショウウオの四十九日』と松永K三蔵さん『バリ山行』がダブル受賞となった。現代も文壇の話題の中心にあり続けている文学賞の最高峰・芥川賞。しかし、そんな芥川賞を、なんと2日間考えた末に「辞退」してしまった作家がいる。それが、文豪・幸田露伴の甥にあたる高木卓だ。彼はなぜ、賞を辞退してしまったのだろうか?


■当時は「一度ノミネートされた者はもう選ばれない」という規定があった

 

菊池寛(菊池寛文学全集 第10巻 文芸春秋新社 1960)

 

 菊池寛によって昭和10年(1935年)に創設され、現代でもなお文芸関係者だけでなく、世間の注目を浴びる芥川賞・直木賞の両賞。第一回の芥川賞は、石川達三の『蒼茫(そうぼう)』に決定し、受賞を切望していた太宰治は発狂しました。

 

 おそらくそのせいで第三回から、芥川賞・直木賞に一度でもノミネートされた者は仮に受賞を逃しても、二度と再びノミネートされないというルールが付け加えられたのでした(現在はそのルールはありません)。

 

 しかし、太宰治がそこまでして欲しがった芥川賞を、なんと辞退する作家が出たのが昭和15年(1940年)上半期(第11回)のことでした。

 

■尊敬する先輩のために、芥川賞を辞退

 

 問題をおこしたのは、明治の文豪・幸田露伴の甥にあたる高木卓という作家です。彼の『歌と門の盾』という作品が見事、芥川賞に選ばれたのですが、高木は「二日考えた末」に辞退してしまいました。「こんなもの(=芥川賞)は素直に受けてくれないと、審査をするものは迷惑である」と菊池寛は激怒しています。

 

 しかし、それから半年後の第12回芥川賞を受賞した櫻田常久(当時は並木宗之介というペンネームを使用)によると、高木が第11回芥川賞を辞退したのは、櫻田のことが関係しているというのです。

 

 高木にとって櫻田は敬愛する大先輩で、二人は同じ文芸サークル「作家精神」に所属していました。そして、高木は幸田露伴の甥という経歴から期待されるとおり、超俗的な精神の持ち主で、自分が辞退すれば、敬愛する櫻田先輩の作品こそが芥川賞に輝くと固く信じ込んでいたのです。

 

 しかしこの時、櫻田の作品は候補にすら上がっていませんでした。要するに、高木は自身の「早とちり」によって、芥川賞を永遠にもらいそこねてしまったのです。うるわしき先輩後輩関係というべきか、とんだ悲喜劇というべきか……。

 

■芥川賞を熱望した太宰治は、「辞退」のニュースに何を感じたか

 

 現在ではノミネート段階で作家とは「仮にあなたの作品が選ばれたら、ちゃんと受賞してもらえますか?」という約束を結ぶそうですが、まだこの時にはそうした取り決めもなかったのでした。

 

 それにしても昭和15年といえば、太宰治はいまだ「知る人ぞ知る実力派」という立ち位置にいながらも、『走れメロス』などの名作を発表していた時期にあたります。

 

 今日ほど芥川賞への世間的な注目度はありませんでしたが、太宰があれほど欲しがった芥川賞を「二日考えた末」に高木が断ったニュースについて、彼が関知していないはずがありません。太宰の反応が残されていないのは残念ですが、本気で死にたくなってもおかしくはないでしょうね。

 

画像出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」(https://www.ndl.go.jp/portrait/)

 

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堀江宏樹ほりえひろき

作家・歴史エッセイスト。日本文藝家協会正会員。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業。 日本・世界を問わず歴史のおもしろさを拾い上げる作風で幅広いファン層をもつ。最新刊は『日本史 不適切にもほどがある話』(三笠書房)、近著に『偉人の年収』(イースト・プレス)、『本当は怖い江戸徳川史』(三笠書房)、『こじらせ文学史』(ABCアーク)、原案・監修のマンガに『ラ・マキユーズ ~ヴェルサイユの化粧師~』 (KADOKAWA)など。

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