秀吉を不快にさせた筒井順慶の「慎重」さ
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第47回
■信長から大和一国を任された筒井順慶

奈良県大和郡山市の筒井順慶歴史公園にある、五輪塔覆堂(おおいどう)。堂内には筒井順慶の墓所である五輪塔が立っており、昭和19年(1944)には重要文化財(建造物)に指定されている。
筒井順慶(つついじゅんけい)は信長の信任を得て有力武将の一人として活躍しましたが、本能寺の変では旗幟(きし)を鮮明にしなかっため、「洞ヶ峠を決め込む」という表現の由来となった、優柔不断または日和見(ひよりみ)主義な武将だと思われています。
しかし、順慶は松永久秀(まつながひさひで)との大和国の支配権を巡る争いを諦めずに続け、最終的には織田家に謀反した久秀を信貴山城(しぎさんじょう)の戦いで倒し、大和一国を任されるほど信任を受けています。また、紀州征伐や有岡城の戦い、天正伊賀の乱などにも大和衆を率いて参加し、活躍をみせています。
歴戦の武将である順慶が日和見主義などと悪評が立ったのは、本能寺の変における「慎重」すぎる対応が原因かと思われます。
■「慎重」とは?
「慎重」とは辞書によると「つつしみ深くおもおもしいこと。注意深くて軽々しく行動しないこと。また、そのさま」とされています。「慎重」には、急がず準備を整えて行動することで失敗を減らせるという良い面がある一方で、行動までに時間が掛かりすぎて逆にチャンスを逃してしまうという一面があります。
「慎重」さは時と場合によって、大きく評価が変わる姿勢です。順慶は本能寺の変という、可及的速やかに決断が求められる状況に直面します。
■筒井家の事績
筒井家は大和守護であった興福寺の信徒から台頭した国人と言われています。応仁の乱で一時的に凋落しますが、祖父順興の時に大和国内における勢力拡大に成功します。父順昭の時代に大和一国を支配下におくものの、父の急死により嫡子である順慶が2歳で家督を承継すると、急激に不安定化します。
その動揺を好機とみた三好家の松永久秀の侵攻を受けて、順慶が居城の筒井城を奪われると、大和国の勢力図は一変しました。しかし、三好家中で主導権争いが始まると、順慶は久秀と敵対する三好三人衆と結んで、筒井城の奪還に成功します。
その後、大和国内での争いは激化し、東大寺大仏殿の戦いへと発展し、失火により大仏を焼失させてしまいます。これは久秀の悪評の元となりました。順慶は久秀と一進一退の攻防を続けていましたが、この状況を一変する勢力が突如として現れます。
将軍候補の足利義昭を奉じた織田信長が南近江を制圧し、上洛に成功したのです。
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