光源氏のモデルの1人に挙げられるハイスぺック貴公子とは? 紫式部とも縁が深かった具平親王の人物像
『紫式部日記』『紫式部集』で辿る紫式部の生涯#08
紫式部が著した『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルとしては、藤原道長をはじめ何人かの候補が挙がる。今回はそのうちの1人であり、紫式部との縁が深かったと思われる具平親王をご紹介しよう。
今回は、紫式部の伯父・為頼を紹介した前回配信で触れた、村上天皇の第七皇子・具平(ともひら)親王を紫式部との関係を中心に記していくことにします。伯父為頼も父為時も具平親王の邸宅千種亭に頻繁に出入りしていました。為頼・為時が具平親王に近侍していたことは、後に『紫式部日記』に記された、藤原道長が息子頼通(よりみち)の妻に、具平親王の娘隆姫を望んで、紫式部に相談を持ち掛けたことの要因となっていました。

イラスト/関根尚
具平親王は村上天皇の皇子であることからもわかるように高貴な人物であり、その学才と教養は詩歌管絃・書道から陰陽道・医学まで広きにわたり傑出(けっしゅつ)していました。博学多才で知られた叔父兼明親王が「前中書王(さきのちゅうしょおう)」と呼ばれたのに対して「後中書王(のちのちゅうしょおう)」と呼ばれたように尊敬を集めました。そのような優れた人物が父と伯父の近くにいたことは、紫式部の成長過程の中で少なからぬ影響があったと考えられるでしょう。光源氏のモデルの一人に挙げられることがあるのも、首肯されます。
また紫式部が彰子に出仕する前に、具平親王家への出仕経験があったと見る説もあります。なお、為頼の子伊祐は、具平親王の子頼成を養子としたと伝わり(『尊卑分脈』)、具平親王との関わりの深さを表していましょう。
『古今著聞集』という鎌倉時代前期に作られた説話集には、具平親王が寵愛する雑仕女を連れて、広沢の池のほとりの遍照寺に出かけたところ、そこで雑仕女が物の怪にとり殺されたという話が載ります。雑仕女の名は大顔と言い、この話を元に『源氏物語』夕顔巻が書かれたとする説があります。遍照寺は昔日と場所は違うようですが、広沢の池の近くに今もあります。
さて、先述したように『紫式部日記』には、次のような記述があります。
中務の宮(具平親王)のあたりの御事を、道長さまは一所懸命になられて、私をその宮家に縁故ある者とお思いになって、いろいろと相談なさるにつけても、ほんとうに、心の中では、さまざまの思案にくれることが多かった。
道長は紫式部を中務の宮すなわち具平親王にゆかりある人物として、あれこれと語りかけてくるというのです。ここだけを見ると、道長が語りかけてくる目的は不明です。しかし、その後の展開を踏まえると、道長の目論見は明確です。頼通が具平親王の娘隆姫と結婚したからです。
具平親王は先に触れたように、父為時や伯父為頼が親しく仕え、その邸宅に出入りしていた人物でした。村上天皇の皇子であり、優れた学才で知られていました。道長は長男の結婚相手として、親王の娘隆姫に白羽の矢を立てて、親王家と関わりが深い紫式部に相談を持ち掛けたのです。頼通は当年17歳、隆姫は14歳でした。道長がまず相談を持ち掛けるほど、具平親王家と紫式部との関わりは深く、よく知られていたのでしょう。紫式部に具平親王家への出仕体験があったとすれば、隆姫のことを良く知っていたはずです。
この時代、縁談に女房が関わることが普通でした。特に室内にいることが多く、情報に乏しい姫君のことを姫君に仕えている女房や親戚の女房から男性側が聞き出すことがよくあったのです。
ここで道長から相談を持ち掛けられた紫式部は複雑な思いがした、と記して、あまり気乗りがしていないようです。何か紫式部に抵抗を感じさせる要因があったのでしょうか。一方で当時の仮名日記には一定の読者がいたと考えられ、この気乗りがしない記述がどこまで本音だったのかという問題もあります。つまり主家の御曹司の結婚に関わるという栄誉をわざと消すような書き方をしている可能性もあるのです。
いずれにしても、最終的に、頼通と隆姫は結婚に到ったわけで、紫式部は主家の御曹司とその正妻(北の方)との結婚に関わっていたことになります。
頼通と隆姫との間に子はありませんでした。道長の正妻倫子が子だくさんで女子も4人生んでいたこととは対照的で、摂関政治のその後の行き詰まりは頼通の子の少なさに因るとも言われます。ちなみに隆姫は嫉妬深く、頼通は他の女性との間に作った子を養子に出さざるを得なかったなどという話も伝わります。ただし後世の書が伝える話なので(『愚管抄』など)この嫉妬が本当のことかどうかはわかりません。
具平親王は寛弘六年(1009)に46歳で亡くなりました。隆姫は長寿を保ち、頼通の死から13年後の寛治元年(1087)に93歳で亡くなっています。
<参考文献>
福家俊幸『紫式部 女房たちの宮廷生活』(平凡社新書)