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出世した父に従っていざ越前へ! 紫式部が詠んだ“上から目線”の歌とは?

『紫式部日記』『紫式部集』で辿る紫式部の生涯#04


NHK大河ドラマ『光る君へ』では、紫式部(ドラマ内ではまひろ)の父・藤原為時が官職につけずに不遇の時代を送っている様子が描かれてきました。後に、為時は越前守に任命されて、紫式部も一緒に現地で暮らしています。今回は、京からの道中で詠まれた歌についてご紹介しましょう。


 

 紫式部が24歳のころです。10年間に及ぶ散位(浪人生活)の後、父親の為時はようやく長徳2年(996)秋の除目(地方官任命の儀式)で、淡路守(あわじのかみ)に就任することになりました。しかし淡路という国は小さく、それを知った為時は失望し、悲嘆に暮れました。

 

 為時は天皇付きの女房に宛てて、申し文(叙任や昇進を求める際に思いの丈やその理由を記して訴える文書)を書きました。そこは漢詩も詠み添えられていました。その一節に「苦学(くがく)の寒夜(かんや)、紅涙(こうるい)襟(えり)をうるほし、除目(じもく)の春朝(しゅんちょう)、蒼天(そうてん)眼(まなこ)に在(あ)り」とありました。一条天皇はその詩句に胸打たれ、このような詩句を詠む文人を小国に任じたことを恥じ、食事もとらず部屋に引きこもってしまいました。

 

 古代中国の「文章経国(もんじょうけいこく)」の思想(漢詩文が盛んに作られることが国家の安定・平和に繫がるとする思想)が若き、17歳の文学好きな帝の心にも根強くあったのです。その様子を見ていた道長が帝の心の中を察して、自分の乳母子であった源国盛が越前守に決まっていたのを為時に差し替えました。越前は大国です。一条天皇は大変満足しました。

 

 以上は為時が越前守に就任した顛末について『今昔物語集』『古事談』『十訓抄』『続本朝往生伝』などの説話集から大筋をまとめたものです。説話によって細かい部分に相違はありますが、『日本紀略』という歴史書に、詳しい経緯は書かれていないものの、上記の国守の交替が記録されているので、まったくのフィクションではなかったようです。実は、この時期、宋国の商人一行が若狭国に漂着し、その後、越前国に移されていて、この事件に対応すべく漢籍に明るい為時が選び直されたともいいます。

 

 この越前への下向時、紫式部は先述したように、推定24歳くらいで、まだ結婚していませんでした。『紫式部集』の娘時代の歌は同性と交わしたものがほとんどです。早ければ12、3歳という年齢で、裳着(もぎ)という女性の成人式が行われるような時代には、紫式部はやや晩婚の域に差し掛かっていました。まだ夫持ちではなかったので、父の赴任国へ行くことになったのでしょう。

 

 越前への旅は琵琶湖の西側を舟で進み、塩津に到り、塩津山を越え、敦賀、五幡を経て、国府の武生(たけふ)に到着するという行程でした。紫式部は往路も、また都へ戻る際の復路でも歌を詠んでいますが、ここでは塩津山を越える際の歌をあげておきましょう。

 

イラスト/関根尚

  知りぬらん往き来にならす塩津山世に経る道はからき物ぞと
(おまえたちもわかったことでしょう。通い慣れた塩津山も、世の中を渡るための道となるとつらいものだということを)

 塩津山を越えるルートは、京から北陸に向かうための要衝で、深坂越えともいわれ、険しいものでした。ここでは和歌の詠まれた事情を記した詞書は省略しましたが、山道を行く輿や荷物などを担ぐ労役に当たる下々の者たちが「なほからき道なりや(やはりつらい道だなあ)」というのを聞いて、輿の中にいる紫式部が歌を詠んだのです。

 

 「塩津山」の「塩」が和歌の「からき」の縁語となっていて機知に富んでいます。古語「からし」は「つらい」という意味と「塩からい」という意味を持っているのです。下々の者が何気なく口にしたことばが難儀な山の名に通じていることへの面白さに着目していて、現代風にいえば「上から」の物言いですが、その「上から」の物言いがいかにもこれから領主(国守)の娘として任国に向かう状況に合致していて面白く感じます。

 

 本当に偉そうな気分になって詠んでいるというわけではなく、状況に合わせた演出という面もありそうです。一方で、このような地方への旅は風光明媚な自然だけではなく、さまざまな階層の人々に触れ、見聞を広める良い契機となったことでしょう。そういえば、『枕草子』作者の清少納言も娘のころ、父清原元輔の周防守赴任によって周防国で過ごしたようです。『更級日記』作者の菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)も上総国で10歳から13歳まで過ごしました。地方の国司を歴任する中流貴族の娘たちは幼少期から青春期にかけて、地方で過ごし見聞を広げました。こうした女性たちがものを書く女性として成長したことはとても興味深いことです。

 

 紫式部は武生の国府近くの国守の邸宅で1年余を過ごしました。ところで、現在、越前市東千福町に、紫式部公園が整備されていて、武生に滞在していた時期の紫式部を今に顕彰しています。そこには黄金色の紫式部像があって、人々の目を集めています。紫式部像は袿(うちき)姿で檜扇(ひおうぎ)を手にして、日野山を向いて立っています。日野山は越前富士と呼ばれ、美しい稜線は武生の国府からもよく見えました。

 

 紫式部像はとても大きく、毅然とした姿は「格好いい」の一言です。近くに「紫ゆかりの館」も整備され、紫式部の越前生活を楽しく学ぶことができます。

 

<参考文献>

福家俊幸『紫式部 女房たちの宮廷生活』(平凡社新書)

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福家俊幸ふくやとしゆき

1962年、香川県生まれ。早稲田大学高等学院教諭、早稲田大学教育学部助教授を経て、現在は早稲田大学教育・総合科学学術院教授。著書に『紫式部日記の表現世界と方法』(武蔵野書院)、『紫式部 女房たちの宮廷生活』(平凡社)など多数。

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