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家康・秀忠に疎んじられた大久保忠隣の「自尊心」

武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第40回

■忠隣の家柄と活躍が高める「自尊心」

 

 巨大化していく徳川家臣団の中で、大久保家は安祥譜代と呼ばれる最古参の家臣筋である点で存在感を示していました。一方で、その立ち位置は忠隣の「自尊心」を高める要因にもなっていました。

 

 それに加え、忠隣は徳川家最大の危機とも言える三方ヶ原(みかたがはら)の戦いにおいて、敗走する家康を守るように浜松城まで付き従った献身性も高い評価を受けていました。

 

 1582年には、信長の饗応にも同行するなど、家康から重臣として扱われています。また、豊臣秀吉からは榊原康政(さかきばらやすまさ)たちと共に豊臣の姓を与えられるなど、外部からもその名を知られる存在となっていきます。

 

 さらに、嫡子忠常は、秀忠より「忠」の字を受け、父とは別に武蔵騎西2万石を拝領するなど、大久保家は特別な扱いを受けるようになっていきます。忠隣は、その家柄とこれまでの活躍により、並ぶべきものがいない状態になりつつありました。同時に、忠隣の「自尊心」は高まりを見せ、その言動に批判が集まるようになります。

 

■家康・秀忠の信用を失う言動

 

 忠隣は古田織部(ふるたおりべ)に師事するほど茶を愛していたようで、数寄に傾倒し西国大名との交流も深かったようです。客人の使いの者には、茶だけでなく馬も与えるほど厚くもてなしていたようで、本多正信から批判を受けています。

 

 さらに、このような要人との交流の多さは、秀忠が立腹するほどだったと言われています。

 

 1611年に嫡子忠常が急死すると、政務を欠席するなど職務放棄とも言える態度を取り、家康から不興を買うようになります。また、秀忠が忠隣のために精進落としを主催しようとすると、これを断り同僚の幕閣からも避難の目で見られるようになります。

 

 また1613年には、山口重信(やまぐちしげのぶ)と忠隣の養女との婚姻について、秀忠の許可を得ていないとして幕府から中止を言い渡されると激しく立腹し、忠隣と秀忠や幕閣たちとの関係がギクシャクし始めます。そして翌年、1614年に謀反の密告があったことを理由に、改易されてしまいます。

 

■建国の功臣が陥るケース

 

 改易の際、忠隣は将棋を指している途中に訪れた幕府の使者に対して「流浪となると将棋が差せないので、一局終わるまで待って欲しい」と言い、平然と続きを始めたと言われています。

 

 この逸話からも、忠隣の「自尊心」の強さが伺えます。

 

 現代でも、創業時に大きく貢献した従業員が高い地位を得ていくと、「自尊心」によって、逆に疎ましい存在になってしまう例は多々あります。

 

 もし忠隣が、謙虚な姿勢で秀忠に仕え、同僚から批判を買うような言動をしていなければ、改易は避けられた可能性があります。

 

 しかし、嫡孫忠職(ただもと)の代に大名として復帰できている点は、同様に改易された正信・正純の本多家の末路とは大きく異なっており興味深いです。

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森岡 健司もりおか けんじ

1972年、大阪府生まれ。中小企業の販路開拓の支援などの仕事を経て、中小企業診断士の資格を取得。現代のビジネスフレームワークを使って、戦国武将を分析する「戦国SWOT®」ブログを2019年からスタート。著書に『SWOT分析による戦国武将の成功と失敗』(ビジネス教育出版社)。

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