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真田幸村(信繁)は大坂夏の陣で死んでいなかった!? 鹿児島・秋田へ逃げ延びた?

日本史あやしい話32


関ヶ原の戦いにおいて西軍に与した真田幸村(信繁)といえば、父・昌幸と共に、3万8千もの徳川秀忠の大軍を、わずか3千の寡兵で足止めを食らわしたと伝えられる名将である。のちの大坂夏の陣では、家康を本陣まで攻め込んだものの、最後は力尽きて討ち取られたとされる。ところが、鹿児島県や秋田県には、幸村が逃げ延びて暮らしたとの伝承が伝えられているのだ。いったい、どういうことなのか?


 

■「日本一の兵」と讃えられた名将

梅浪花真田軍配(東京都立図書館)

 真田幸村こと信繁とは、いうまでもなく豊臣方として獅子奮迅の働きをした名将である。大坂冬の陣では、大坂城三の丸南に出城・真田丸を築いて徳川勢を翻弄。

 

 続く大坂夏の陣でも、家康の本陣にまで攻め込み、あと一歩というところまで追い詰めるといった活躍ぶりであった。その勇猛果敢さが讃えられて、後に「日本一の兵」と称されたことも、よく知られるところだろう。

 

 父は、武田二十四将の一人として名高い信濃の豪族・真田昌幸で、その次男として生まれたのが信繁であった。兄は信之。関ヶ原の戦いでは、敵(兄・信之)と味方(父・昌幸、次男・信繁)に別れて戦ったこともまた、多くの人が知るところである。

 

 武田氏が信長・家康連合軍に敗れて滅ぶと、早速信長の配下に。その信長が本能寺の変で殺されるや、今度は越後の上杉氏に従属。当時19歳だった信繁は、人質として越後に送られるという苦い思いも味わっている。

 

 その後、躍進を続ける秀吉の配下となり、その家臣・大谷吉継の娘をも娶った。乱世を生き延びるためには、その時々の情勢に合わせて泳ぎ回る必要があったからである。

 

 一方、兄・信之は、家康の重臣・本多忠勝の娘を娶った。婚姻関係においても、兄と弟は徳川方VS豊臣方に別れることに。これも、真田家が生き残るための方策だったのだろうか。

 

 ともあれ、父・昌幸と次男・信繁の活躍は、関ヶ原の戦いにおいても際立っていた。その開戦直前のことであるが、信繁が父とともに徳川秀忠軍を上田城に籠って足止めさせたことがあった。3万8千もの大軍を前に、わずか3千にも満たない寡兵で必死に耐え続けたその忍耐強さも、後世にまで語り継がれたものである。

 

 ただし、秀忠軍が関ヶ原の戦いに間に合わなかったというのは、真田軍に足止めされたからだけではない。家康からの上洛を告げる使者の到着が川の増水で遅れたことで、秀忠軍の転進が遅れてしまったと考えられるからだ。

 

 関ヶ原の戦いの後へと話を進めよう。真田家は、それまでの風見鶏的な動きから一転、徳川方への寝返り要請をも拒否して義を貫き通し、敗者である豊臣側に与したまま、最後の戦いとなった大坂夏の陣で、前述のごとく家康を追い詰めたのである。

 

 それでも、結局は力が尽きた。四天王寺近くの安居神社内において、敵兵に討ち取られている。その散り際の美しさが人々の心を捉えて離さず、今日まで語り継がれているのだ。

 

 ところが、真田幸村(信繁)が鹿児島へ逃げ延びた……という噂が当時、流れていたのである。

 

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藤井勝彦ふじい かつひこ

1955年大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』(天夢人)、『邪馬台国』『三国志合戰事典』『図解三国志』『図解ダーティヒロイン』(新紀元社)、『神々が宿る絶景100』(宝島社)、『写真で見る三国志』『世界遺産 富士山を行く!』『世界の国ぐに ビジュアル事典』(メイツ出版)、『中国の世界遺産』(JTBパブリッシング)など、日本および中国の古代史関連等の書籍を多数出版している。

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