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真田幸村(信繁)は大坂夏の陣で死んでいなかった!? 鹿児島・秋田へ逃げ延びた?

日本史あやしい話32

 

■逃げ延び、薩摩を経て大館(秋田県)へ?

 

 戦いが終結してしばらくすると、京の都では誰ともなく、「花のやうなる秀頼様を 鬼のやうなる真田がつれて 退きものいたよ加護島へ」というわらべ歌が歌われるようになったという。

 

 端的に言えば、「真田(信繁)が(豊臣)秀頼を連れて、加護島(鹿児島)へ逃げ延びた」ということか。死んだとされる信繁が、生き延びて薩摩へ逃げたと、まことしやかに語られるようになったというのだ。

 

 「そんなバカな」と思われるかもしれないが、全くあり得ない話ではない。信繁には影武者が7人もいて、討ち取られたのは影武者の方だったとの説があるからだ。また、日本各地に信繁の墓(全国各地に10ヶ所以上)が存在するというのも、それを裏付けているかのようである。

 

 一説によると、主君である秀頼とともに、戦場を抜け出して薩摩へ渡り、そこで数年隠れ住んだという。しかし、島津家が幕府に恭順したことを受けてその地を離れ、奥州へ向かったと伝えられているのだ。

 

 薩摩で隠れ住んだのは南九州市雪丸という名の集落で、ここには信繁の墓まである。賽銭代わりに小石が多数添えられた小さな石塔がそれ。

 

 また、奥州に向かったのは、亀田藩藩主・岩城宣隆(秋田藩佐竹氏の親族とか)に嫁いだ信繁の五女・御田姫(顕性院)を頼ったからともいわれる。東北各地を巡礼者姿で巡り歩いた後の1625年に、大館(秋田県大館市)へたどり着いたのだとも。

 

 ここで信濃屋長左衛門を名乗って、嫡男の大助とともに、佐竹氏の庇護のもと暮らし始めたと伝えられている。

 

 没したのは1641年、75歳まで生き延びたというから、状況を踏まえれば、大往生というべきだろう。大館市内にある一心院に信繁と大助親子の墓があるというが、それこそが信繁生存説の証というべきものなのかもしれない。

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藤井勝彦ふじい かつひこ

1955年大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』(天夢人)、『邪馬台国』『三国志合戰事典』『図解三国志』『図解ダーティヒロイン』(新紀元社)、『神々が宿る絶景100』(宝島社)、『写真で見る三国志』『世界遺産 富士山を行く!』『世界の国ぐに ビジュアル事典』(メイツ出版)、『中国の世界遺産』(JTBパブリッシング)など、日本および中国の古代史関連等の書籍を多数出版している。

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