【偉人クイズ】関ヶ原の戦いで、小早川秀秋が裏切ったのは何歳のとき?
偉人クイズ
突然ですが、歴史クイズの時間です!親子で楽しく問題を出し合いながら遊んでみてね!【歴史人Kids】

秀秋が着ていたという、奇抜な鎌(かま)もようの陣羽織(じんばおり)。©ColBase
いまから423年前のこと。慶長5年(1600)に行われた「天下分けめの戦い」といえば、関ヶ原(せきがはら)の合戦。徳川家康(東軍)が、石田三成(西軍)をやぶった戦いとしてよく知られています。この戦いで家康の天下がほぼ決まったといえるでしょう。
さて、その勝敗を左右したといえるのが、ひとりの若者がとった行動でした。
小早川秀秋(こばやかわ ひであき)。この年19歳の大名です。
9月15日、両軍は互角にたたかっていましたが、秀秋が西軍をうらぎると、それにあわせて脇坂(わきさか)、小川など何人かの大名もねがえり、一気に東軍が優勢になって勝敗がきまったといわれています。
秀秋という人は、武将としてそれほど優れていたわけではなかったようです。しかし戦いでは8000人とも1万5000人ともいわれる大軍を連れていて、戦場では松尾山(まつおやま)という重要な地点に陣をしいていたのです。
では、なぜ秀秋は、19歳の若さでそのような大軍をひきいる立場になったのでしょうか。それは、かれが天下人・豊臣秀吉の甥(おい)にあたるからです。正確には秀吉の妻・ねねの兄、木下秀定(ひでさだ)の息子だったのですが、秀吉夫婦には子がいませんでした。そこで秀吉は養子にむかえ、大切に育てたのです。
秀秋は7歳で元服(げんぷく)すると、豊臣家の後継者(こうけいしゃ)として、まわりからチヤホヤされて不自由なく育っていきました。ところが文禄2年(1593)秀吉に実の子・秀頼(ひでより)が生まれると、秀頼が正式な後継者となります。そのため秀秋は13歳で有力家臣の小早川家へ養子(ようし)に出されたのでした。
秀秋にとって、二度めの養子入りです。豊臣家からの養子入りということで、小早川家の家格(かかく)は一気に高まり、豊臣の姓をあたえられ、父の小早川隆景(たかかげ)の五大老(ごたいろう)入りもみとめられました。その後、慶長2年(1597)に隆景が亡くなると、秀秋はやがて北九州59万石という大名に仲間入りしたのでした。だからこそ、それほどの大軍を養うことができたと考えられます。
それは本人の努力や才能というよりも、家柄によって保たれたものだったといえるでしょう。歴史は時として、年端(としは)もいかぬ若者や、能力に乏しい人に運命をゆだねることがあるのです。
こうして東軍勝利の功労者となった秀秋は、関ヶ原の戦いのあと、岡山55万石を得ました。ところが、それからわずか2年後に病気で亡くなります。21歳というあまりの早世(そうせい)。関ヶ原で負けた石田三成や大谷吉継(おおたに よしつぐ)の亡霊にのろい殺されなどというウワサも立ったぐらいでした。
秀秋の死の原因は、アルコール依存症(いぞんしょう)といわれています。お酒の飲みすぎで内臓(ないぞう)をこわしてしまったのです。秀吉の身内だったため、秀秋はお酒の席によばれることも多かったようです。それも、かなり幼いうちから。いつしかお酒の味をおぼえ、やめることができずに寿命をちぢめてしまったのかもしれません。
主な参考資料:『三河物語』『医学天正記』