城主になんと「世界文化遺産の城を捨てさせた」美女がいた⁉
江戸の美女列伝【第4回】
女性に入れあげて、散財してしまったり、借金を作ってしまったりするのではなく、そのために城を失ってしまった大名がいた。

姫路城
姫路城は西国の大名をにらむ要衝に位置付けられていたため、徳川四天王のうち彦根城に固定された井伊家を除く、3家が城主を務めた。
傾城とは、主君が城を傾けてしまうほど溺愛(できあい)する美女のこと。江戸時代には、美女に入れあげて城を傾かせるどころか失ってしまった大名がいた。しかも、失ったのが世界文化遺産に登録されている日本を代表する名城・姫路城だ。大名に城を失わせた美女の名は吉原の妓楼・三浦屋の高尾。
諸説があるが、三浦屋の高尾は11人いたといわれており、このうちの6代目とも7代目とも10代目といわれているが、判然としない。そのため、一般には榊原高尾と呼ばれている。彼女のために姫路城を失ったのが榊原政岑(さかきばらまさみね)で、その苗字を取ったのだ。
榊原高尾は、一説によると江戸の本所猿江十願寺門前で花売りをしていた六兵衛の娘だといわれているが、家庭の事情から吉原に身を投じることになった。そこで才能を買われたのだろう。妓楼三浦屋の最高位である太夫となり、高尾と名乗るようなったのだ。
この高尾を身請けしたのが、当時姫路藩主であった榊原政岑である。榊原家は、徳川家康四天王のひとり榊原康政(やすまさ)を先祖にもつ。康政は、関ケ原の戦いに間に合わなかった徳川秀忠(とくがわひでただ)を叱咤する徳川家康に対して、秀忠をかばって陳謝。家康は康政が頭を下げるならと秀忠を許したという。
政岑は、一族の大名家ではなく、千石取りの旗本家の次男として生まれたが、兄が亡くなったため旗本家の家督を継ぐ。その後姫路藩主・榊原政佑(まさすけ)の末期養子となり、姫路藩主の座に就いた。旗本の次男として生まれたが、武士としての教養は一通り身に着けていたようで、書をよくし、将棋に秀でており、能楽をはじめとする芸事も得意だったという。
享保20年(1735)、陸奥白河藩主・松平基知(まつだいらもとちか)の養女・久姫(ひさひめ)と結婚。夫婦仲は良かったようだが、彼女が難産の末、落命すると、吉原通いが激しくなり、三浦屋の高尾に会ったとされる。愛妻を失った政岑の心の隙間を埋めたのは、彼女だったのだろう。
寛保元年(1741)、政岑は高尾を落籍させた。身請け金が2500両、その時に、吉原を貸し切っての宴会を開いたといい、これも含めると3000両もの金を散財したという。これでだけではなく、仲間の大名たちを集めての祝宴を張った。
これが、他の時代であれば、問題がなかったのだろうが、「質素倹約」を旨とする8代将軍・徳川吉宗(よしむね)の世である。しかも、吉宗の政策に反発し、これ見よがしに華美な生活を送っていた尾張藩主・徳川宗春(むねはる)が元文4年(1739)に謹慎処分を受けてからは、大名たちもおとなしくしていた。
政岑が時代に逆行するような派手な身請けをしたのは、彼なりの吉宗に対する抵抗だという人もいる。やがてあちこちらに隠密を放っていたとされる吉宗の耳にこのことが入った。
寛保元年(1741)、老中・松平乗邑(まつだいらのりさと)は、姫路藩の家老たちを呼び出して、政岑の蟄居隠居と姫路から越後高田への転封を伝えた。お取りつぶしの可能性もあったが、さすがに徳川四天王のひとりにあげられた榊原家では、それはできなかったのだろう。同じ15万石とはいえ、この転封には懲罰的な意味合いが含まれていた。高田に移る際、政岑は、罪人が乗せられる駕籠で運ばれたという。高田での政岑は、自分の跡を継いで藩主となった息子政純を助けて、財政立て直しのために倹約に努め、灌漑や竹細工などを奨励したというが、寛保3年(1744)、31歳という若さで亡くなった。
一方の高尾は、「自分のせいでこんなことになった」と責任を感じて、政岑の菩提を弔いながら江戸で生き続け、天明9年(1789)にひっそりと人生を終えた。生前、海でも川でも山でもいいから骸を打ち捨ててほしいと言っていたと伝わるが、東京雑司ヶ谷の本立寺にある榊原家の墓所近くに高尾の墓が立っている。