始皇帝の母と不倫、謀反に関与… それでも権威を保ったスゴい男・呂不韋
故事成語で巡る中国史の名場面
普段何気なく使っている言葉の中には、中国の歴史にルーツを持つものも少なくない。「矛盾」や「逆鱗(に触れる)」もその例である。ここでは「一字千金」という言葉の由来を探るとともに、中国史にその名を刻んだ呂不韋を逸話を紹介する。
■食客3000人を招聘した呂不韋

呂不韋の墓(河南省南蔡庄)
人気漫画『キングダム』の勢いが止まらない。映画の実写化第3弾も大入りで、アニメ版も着々と進行。単行本はまもなく70巻に届き、SNS上での考察も盛り上がりを見せている。
『キングダム』には癖の強い登場人物が多いが、呂不韋(りょふい)はそのひとりである。
「一字千金(いちじせんきん)」はこの呂不韋に由来する言葉で、国語辞典の『広辞苑』には、「きわめて価値ある立派な文字や文章」とある。この言葉が発せられた状況を理解するには、呂不韋の経歴から順を追って見ていくのがよいだろう。
呂不韋は諸国を巡る大商人の出身で、あるとき、趙国の都で人質生活を送っていた秦の公子(王族)・子楚(しそ)と出会った。子楚に可能性を感じた呂不韋はその擁立のために投資を惜しまず、結果、子楚が王位を継いだことで、呂不韋は秦国の丞相に取り立てられる。子楚の子の政(せい)の代になると、政がまだ幼いことから、呂不韋が後見役も兼ねて政務を執った。
呂不韋は単なる野心家ではない。斉の孟嘗君(もうしょうくん)、魏の信陵君(しんりょうくん)、趙の平原君(へいげんくん)、楚の春申君(しゅんしんくん)の「戦国四君」に対する憧れがあった彼は、秦国に同様の存在が欠けることを恥とした。食客(しょっきゃく/客の待遇で養われる代わりに主人を助ける者)の招聘に力を入れ、その人数は3000人にも達する。
食客は計略や武芸など一芸に秀でた者ばかりで、儒学や法家の説、老荘思想など諸子百家の思想に通じた者も少なくなかった。呂不韋は秦の国威発揚のため、また、自身の名を後世に伝えるため、大文化事業に着手していく。
■「一文字でも添削できれば大金を与える」と呼びかけるも…
前漢武帝時代の歴史家、司馬遷(しばせん)が著わした『史記』の「呂不韋列伝」には次のようにある。
「呂不韋は自分のところの客たちに、それぞれ学び伝えていることを記させ、合計20余万字の書を編集した。天地・万物・古今の事がらすべてを網羅したと自負し、『呂氏春秋』と名付け、秦の都である咸陽(かんよう)の市場の門にその内容を記した板を並べ立て、その上に千金をつりさげて、諸国の学者たちを招き寄せ、“一字でも添削できる者には千金を与えよう”と触れを出した」
ここで言う「千金」とは特定の金額ではなく、大金の意。それだけの褒美を見せられても、名乗りを挙げる者は一人としていなかったという。当時の呂不韋の権勢を考えれば、たとえ誤りを正す行為だとしても、不興を買って厳罰に処される心配は消えなかった。呂不韋ほどの人物であれば、それをも承知の上での呼びかけだったはずである。
呂不韋は、かつての愛妾であった太后(政の母)と不倫を働いたこと、彼女に巨根の間男を斡旋したこと、その間男が起こした謀反に関与していたことなどが発覚し、丞相からの解任、封地である河南への蟄居を命じられている。それでもなお、国内外から面会を求める客がひきもきらなかったことからも、彼の権勢ははっきりと見て取れる。
■権勢が強すぎて配流に
先には弁護する者があまりに多いことから、死刑や流刑を免除した政だが、蟄居してなお勢威が衰えない様子を見せつけられては、さすがに現実的な脅威と認識せざるをえず、改めて蜀(現在の四川省)への配流を言い渡した。
当時の倣いとして、これは段階的な処罰の第一弾だった。配流先へ向かう途中で、第二、第三の命令が届き、どんどん重い処罰が課され、最終的には死を迫られるのである。呂不韋もそれがわかっていたから、最初の段階で、みずから毒を仰ぐことを選んだのだった。
さて、『キングダム』の呂不韋は漫画とアニメでは一度退場済みだが、再登場の可能性もある。漫画・アニメではともに、死んだのは身代わりで、本物の呂不韋は野に身を隠したとしており、実際にそうであった可能性も否定できない。内容に対する評価はともかく、『呂氏春秋』は後世にも伝えられたから、呂不韋も願いが適ったと言える。同書がなくとも、国威発揚は十分達成されていたが。