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織田家の力を巧みに削いだ秀吉の「計略」

史記から読む徳川家康㉚

 同年812日には、黒駒(山梨県笛吹市)で両軍が激突し、北条軍は300余の兵を失う敗北を喫した(『家忠日記』)。この徳川軍の勝利で、甲斐における武田旧臣は徳川方に服属する意思を固めた者が相次いだという。

 

 家康への臣従を選んだ武田旧臣とともに北条氏と戦う徳川軍は、同年925日の三島合戦においても北条軍を撃破し、戦局は家康優勢で推移した。

 

 そんななか、同年1015日に秀吉は大徳寺(京都府京都市)で信長の葬儀を執り行なっている。主催者は秀吉自身だった(『晴豊公記』『多聞院日記』)。織田信雄(のぶかつ)、信孝(のぶたか)兄弟や柴田勝家らは葬儀に参列しておらず、織田家中の対立が浮き彫りになる形となった。

 

 同年1029日、織田政権(信雄、信孝、秀吉ら)から講和の指示を受けたため(『譜牒余録』)、あるいは北条側からの申し出により(『武徳編年集成』)、徳川軍と北条軍は和睦(『家忠日記』)。甲斐、信濃を徳川、上野を北条の領土とすることや、家康の娘(督姫/とくひめ)を北条家の当主である氏直と結婚させることなどが条件だった。

 

 同年111日、秀吉は、家康の家臣である石川数正(いしかわかずまさ)のもとに書状を送っている。秀吉は、勝家の画策で信孝が謀反を起こしたことを受け、丹羽長秀(にわながひで)、池田恒興(いけだつねおき)とともに、信雄を守り立てていくことにした、と報告。家康に信雄擁立の承認を求めている。なお、秀吉はこの書状の中で、甲斐・信濃の全域を家康がほぼ掌握したことを喜び、浜松への帰陣を勧めてもいる(「小川文書」)。

 

 それから約1か月後となる129日、秀吉は信孝を岐阜城に攻め、降伏に追い詰めた(「小早川文書」)。

 

 同月12日に、平岩親吉(ひらいわちかよし)を甲斐郡代に置き、家康は甲斐を後にした(『家忠日記』)。甲斐はまだしも、信濃についてはまだ掌握したとはいいがたい状況ではあったが、いったん退くことにしたのである。

 

 翌1583(天正11)年118日、家康は信雄と尾張国星崎で面会(『家忠日記』)。どんな内容のことが話し合われたのかは定かでないが、その後の織田家において、二人が連携していくことが確認されたものと見られる。家康は態度を明らかにしてはいなかったものの、秀吉が信長の後継者となりつつあることを不満に思っていたらしい。信長の正当な後継者を信雄と考えていたのかもしれない。

 

 同年317日、秀吉は近江国賤ヶ岳(しずがたけ/滋賀県長浜市)に布陣(「木村文書」)。勝家との全面戦争を迎えた。4月には両軍による激戦が繰り広げられたが、前田利家(まえだとしいえ)が突如として戦線離脱したことを境に、柴田軍は劣勢に立たされ、同年424日、勝家は居城である北ノ庄城(福井県福井市)に撤退。追い詰めた秀吉は、利家とともに城を包囲した(「大友家文書」)。その結果、勝家は妻のお市の方とともに自害を選んだ(『惟任退治記』「毛利家文書」)。

 

 こうして権力の掌握を果たした羽柴秀吉に、天下の形勢が大きく傾いていくことになる。

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過去記事

小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。近著に『「最弱」徳川家臣団の天下取り』(エムディエヌコーポレーション/矢部健太郎監修/2023)、執筆協力『歴史人物名鑑 徳川家康と最強の家臣団』(東京ニュース通信社/2022)などがある。

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