歴史上の人物を四柱推命で鑑定!第73回~真田幸村~
アタマが良すぎて真面目で超慎重派! 関ヶ原では救われた命でも、大坂夏の陣での討死は本望?
〇知性60%! 頭がよすぎた!?
知性は、知識が豊富で論理的な思考が得意という星であるが、これを60%持っていた幸村は、非常に頭がよかったのだろう。「自星(じせい)」というプライベートな性格を示す大事な場所(日柱の蔵干通変星)に「偏印(へんいん)」を、その他に「印綬(いんじゅ)」を2つ持っている。「偏印」とは、アイディアやひらめきがあり、企画力に長けている星。「印綬」とは幅広い知識を持ち、いわゆる学校の勉強が得意な星。この両方の要素を持つ幸村は、常に物事を客観的に論理的に捉えていたことだろう。
父・真田昌幸とともに戦の名将として知られる幸村。関ヶ原の合戦の折、徳川秀忠を総大将とする3万8000の兵を相手にわずか2000の兵で立ち向かい、勝利を収めた第2次上田合戦は有名だ。上田にくぎ付けにされた徳川勢は、関ヶ原での本決戦に参戦できなかった。真田家は大勝利を収めながらにして、西軍は負けてしまうのだが……。
そんな幸村が父なしでやってのけた戦が、豊臣方に付いて戦った最後の大勝負「大阪の陣」。冬の陣では、はなから大阪城での籠城を主張する大野治長ら豊臣方首脳陣に対し、前哨戦で小さな勝利を収めた上で籠城する案を持ちかけるもあえなく却下。仕方なく大阪城に出城「真田丸」を作り、徳川方に大ダメージを与えた。ますます不利な状況となった夏の陣において、幸村が豊臣秀頼の出陣を望むも、秀頼の母・淀から却下される。さらに、家康の陣に夜襲を掛けることを提案するも、これも却下。その後幸村が綿密な計画を立てるも、功を焦る武将や不安を感じた兵に翻弄されてこれもうまく行かず……。最終手段、家康の陣にのみ狙いを定めて一発逆転勝利を狙う途中で、奇しくも戦死した。自分の渾身のアイディアが却下される度に豊臣方が苦境に立たされていく……悔しくて仕方がなかったことだろう。特に「印綬」を持っている人は、頭が良すぎて周りがバカに見えてしまう。戦も知らずに指示を与える淀や保守的な首脳陣に心底腹を立て、失意の中に死んでいったかもしれない。幸村の知性は羨ましいが、同じ知的レベルで話ができた人がどれほどいただろうかと考えると、頭がよすぎるのも考え物である。
〇とっても真面目な性格
幸村は、通変星の一番大事な場所、主星(しゅせい)(月柱の蔵干通変星)に「正財(せいざい)」を持っている。これは、人脈の星であり、人を大切にするため多くの人と信頼関係を築くことができる。また、真面目で家庭的な星。
大阪冬の陣で、真田丸を築き、徳川方に大打撃を与えた幸村。その幸村のもとには、家康から甘い誘いが舞い込んできた。徳川方の使者を介し、「もし徳川方に寝返れば10万石を与える」、「信濃一国を与える」等と言って何度も幸村を説得しようとした。しかし、幸村は終ぞ首を縦には降らなかった。関ヶ原の合戦で敗れ、九度山で14年間の幽閉生活を送ってきた幸村にとって、自分に働く場所を与えてくれた豊臣家に恩義を感じていたのだろう。義理に厚く、人情に厚く、真面目な性格であることが見て取れる。豊臣方からの信頼も強かったものと思うが、幸村の意見を聞き入れる余裕がなかったことは至極残念である。
〇とっても飽きっぽい性格!
幸村は、通変星に「偏印」を、十二運星に「胎(たい)」と「沐浴(もくよく)」を持っているが、この星は、飽きっぽい星ベスト3。どれか1つ持っているだけで飽き性なのだが、この3大星を全て持っている幸村は、好奇心が強く自分で自分をコントロールするのも難しかったのではと思う。
関ヶ原の合戦後、東軍についていた兄・信之と本多忠勝の嘆願により死罪を免れ、家康から高野山・九度山への蟄居を命じられた。幸村、33歳の時である。信之からの仕送りに頼って生活していたが、兵術や天文を学んだり、丈夫な「真田紐」を編んで家来に売り歩かせたりと、精力的に活動を行い、生活にもそれほど困っていなかったようだ。その後、父も亡くなり、1614(慶長19)年に豊臣秀頼の使者が協力を求めて幸村のもとを訪れたのである。そのまま九度山で生活を続けていれば、命を長らえることもできただろうに、飽きっぽい幸村にとって同じ場所で14年もたんたんと暮らすことが苦痛だったのだろうか。不利であることを承知の上で、戦に加わる道を選んだ。特に「沐浴」は「少年の星」と呼ばれ、思春期の少年のように、思い切りがよく、何をしでかすかわからない危うい星。浮気性だったり海外で放浪生活を送ったりするのが向いている。後先を考えずに思い切って事を成し遂げたくなったのだろう。
〇意外にも「石橋を何度も叩いて渡る」性格!
上で説明した「沐浴」とは対照的に、意外にも幸村はのんびり屋でなかなか行動に移せない性格も持ち合わせていたと予想される。まず、幸村は通変星に「行動力」の星を持っていない。よって、何事も熟慮した上で動いていたと考えられる。また、命式表に「印綬」と「正財」を持っているが、この組み合わせは、実行力がなく、石橋を叩いて、叩いて、叩き割って見せて、「ほら、やっぱり危なかったからやらなくてよかった」と言い出しそうなほどの慎重派。こんな異常なほど慎重な部分と、「沐浴」に代表される飽きっぽい3大星を持っている幸村は、自分でも自分がわからず、時々湧いてくる衝動のコントロールに困ったものと思う。それゆえ、14年間は九度山でおとなしくしていたが、その我慢に耐えられなくなったストレスが、大阪の陣で大爆発したのだろう。