100名以上が死亡した「史上最悪のバス事故」は人災だった!? バス6台が「危険地帯」を走行した”信じられない理由”とは? 飛騨川バス転落事故【前編】
世間を騒がせた事件・事故の歴史
近年の日本では「ゲリラ豪雨」や「線状降水帯」という言葉が日常語となり、報道でも「観測史上例のない豪雨」「経験したことのない大雨」といった表現が繰り返される。日本は地理的環境から局地的な豪雨になりやすい。また、山地が多く川が短く勾配が急なため、雨水が短時間で下流に集まり、水害を受けやすい国土なのである。日本のバス事故史上最悪の大惨事は、集中豪雨が原因だった。この前編では、家族の笑顔を乗せた観光バスが、最悪のタイミングで、最悪の場所へと足を踏み入れてしまうまでの流れを追いたい。
■約730名が参加したバスツアーの概要
1968年8月、「乗鞍雲上ファミリーパーティー」なるバスツアーが企画された。これは、愛知県の名古屋エリアで配布される新聞形式のフリーペーパーの読者を対象に企画され、地元の旅行会社との共催により実施された。愛知県犬山市を夜遅くに出発し、早朝に乗鞍岳からの「ご来光」を仰ぐという趣旨だった。当時の日本は、高度経済成長期のレジャーブームのさなかであり、大型観光バスによる団体旅行が人気を呼んでいた。
乗鞍岳は3000m級の高山でありながら、標高2702mの畳平(たたみだいら)までバスで上がれるため、短い滞在でも高山帯の景観と冷涼な空気を味わえる観光地だった。畳平はバスターミナルを中心に飲食や売店などの施設が集まり、夏季は観光客で賑わうことから「雲上銀座」とも呼ばれてきた。お盆休みの週末という好日程に加え、団地内からの送迎付きで安価な参加費、特典も用意された手軽な企画であったことも手伝い、申し込みは主催者の予想を大幅に上回った。最終的には家族連れを中心に約730名が参加し、主催者、添乗員、乗務員を含めた全体で約770名がバスに分乗した。バスは1号車から16号車までを用い、4号車を欠番としたため、合計15台に及んだ。計画では、愛知県犬山市の成田山に集合し、22時10分に乗鞍岳へ向けて出発。車内で睡眠をとり、翌日4時30分に畳平へ到達し、ご来光を拝するなど山岳の魅力を楽しんだ後、夕方に名古屋方面へ帰る行程だった。
■洪水注意報が出る中で走り続けた15台のバス
8月17日9時30分、岐阜地方気象台が岐阜県下に大雨注意報・洪水注意報を発表し、11時10分には雷雨注意報も加えた。夕方にいったん解除されたが、20時にふたたび雷雨注意報が発表された。 ツアー主催者は日本気象協会東海支部に電話で照会し、見通しを確認した。さらに同じ目的地への定期観光バスが運行すると聞いたことなどを根拠に、決行を選んだ。ただし、判断の軸にあったのは乗鞍岳側の天候で、走行ルートとなる飛騨川沿いの国道41号の状況は念頭に置かれなかった。結果としてこれが仇となった。 15台のバスは列をなし、22時20分に犬山市を出発した。ご来光という目的がある以上、出発を遅らせることは好ましいことではなかった。走行中の22時30分に、岐阜地方気象台は岐阜県内に大雨警報・洪水注意報を発表したが、携帯電話のない時代に、主催者は情報更新を把握することはなかった。夜遅いことからカーラジオのスイッチも切られていたともいわれる。
やがて15台のバスは激しい雷雨に遭遇した。雨で視界は遮られ、道路は冠水し、減速を余儀なくされた。だが、同じ方向を目指す他社の観光バスの姿もあったことから、ツアー主催者は、豪雨は一時的なものだと判断して、ツアーの中止などの決断はしなかった。今で言えば〝正常性バイアス〟が働いたのだろうか。
■ようやく判断されたツアーの延期
ツアーの延期が決まったのは、主目的である「ご来光」に間に合うように畳平へ到達することが不可能だと理解されてからである。15台のバスは国道41号の最初の休憩地であるモーテルAにいったん止まった。そこで、進路上で崩落が起き北上できず、夜明け前の復旧の見通しは立たないことが分かったのである。この時点で主催者はようやくツアーの延期を決め、名古屋方面へ引き返すことになる。日付は変わり、8月18日になった。名古屋方面へ引き返すことになった車列は国道41号を南下した。途中で多少の入れ替わりはあったが、原則として1号車からナンバー順に途切れずに走っていた。だが、1台が臨時で短い休憩に入ったことから、1号車、2号車、3号車、5号車、6号車、7号車の計6台と、8号~16号車までの9台とで前後に大きく車間が開いた。
モーテルAを出て十数分の地点に、国鉄高山本線が停まる白川口駅がある。山間のローカル駅であり、都市部の駅とは周囲の風景が異なる。1968年に駅前にコンビニなどない。それでも周囲にスペースがあり、線路がある以上、土地が開けている。駅舎では電話など外部と連絡が取りやすく、地元の消防団も到達しやすい場所だった。そこには豪雨が収まるのを待つようにバスや乗用車が何台か停車していた。だが、先頭グループの6台は駅前で足を止めず、飛騨川に架かる飛泉橋(ひせんばし)を渡って飛水峡(ひすいきょう)区間へ入る。そこでは、片側の河岐山の斜面には水が流れ込み、反対側は崖の下に飛騨川の濁流が迫っていた。退避空間が限られ、異変が起きれば退避も迂回も難しい区間である。そのとき、飛泉橋付近には北上車線側に通行禁止の看板が出ていたが、南下する先頭グループは進路の危険を示す情報に接することがなかった。一方、後続のグループ9台は道路に流出する土砂に遭遇し、バスを止めて情報を収集するなどした。運行を再開できたものの、運転手たちは協議の末、白川口駅前で道路の復旧を待つことにした。この分断が約770名の運命を分けたのだった。

乗鞍岳畳平/AC