信長ら武家の力に「期待」した公家の近衛前久
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第90回
■有力な武家に「期待」し続けた近衛前久

茨城県古河市中央町に立つ古河城跡の石碑。前久は関白在任中に越後の上杉謙信の元へ下向し、古河城の奪還を支援した。
近衛前久(このえさきひさ)は、藤原北家である五摂家(ごせっけ)の筆頭の家柄でありながら、政治的な立場が不安定なために各地を流浪した公家というイメージが強いと思われます。
しかし、前久は三好長慶(みよしながよし)に対抗するために、上杉謙信を見込んで自ら下向し、下総国古河城に入り関東平定に協力しています。
公家でありながら、花押(かおう)を武家様式に変え、趣味では鷹狩りを好み、信長の京都御馬揃え(きょうとおうまぞろえ)では乗馬して参加するなど、武士のような行動が多いのが特徴的です。
前久の流浪は天下静謐(せいひつ)への「期待」が原因と思われます。
■「期待」とは?
「期待」とは辞書などによると「あることが実現するだろうと望みをかけて待ち受けること。当てにして心待ちにすること。」とされています。
似た言葉として「希望」があり、望みを掛ける点では同じですが、「期待」には期待する相手に対して見返りを求める側面があります。そのため、「期待」の逆効果として、相手にプレッシャーや焦りを与える点にも違いがあります。見返りが得られない事を指す「期待を裏切る」という表現がある点も大きな違いです。
前久は乱世を収めるため、天下人の誕生を期待していたと思われます。
■近衛家の事績
近衛家は藤原不比等(ふじわらのふひと)の後に分かれた藤原四家のうち、北家を起源とします。藤原道長の時代に全盛期を迎えます。
藤原忠通(ただみち)の後、源頼朝の介入もあり近衛家と九条家に別れました。その後、近衛家から鷹司家(たかつかさけ)が別れ、九条家から一条家と二条家が分かれて五摂家と呼ばれるようになります。
近衛家は足利将軍家と縁戚関係を持つようになり、前久の祖父近衛尚通(このえひさみち)の娘が12代将軍義晴(よしはる)に嫁ぎ、13代将軍義輝(よしてる)には妹大陽院が嫁いでいます。そのため父種家の時代には、将軍が争乱を避けて動座すると、これに付き従って下向するようになりました。
しかし、前久は義輝が三好長慶との対立から動座したころから、足利家と距離を置くようになります。
1559年に上杉謙信が上洛すると、起請文を交わすほど懇意となり、翌年には関白の地位にありながらも越後国(えちごのくに)に下向します。前久は謙信による関東平定のために、関東管領上杉憲政(うえすぎのりまさ)たちとともに出陣し、下総国古河城の奪還を支援しています。
その後、武田家と北条家による反抗が激しくなり、謙信による関東平定が難しくなると、再び京に戻っています。
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